「花野来てポケモンさがす二人かな」の批評
回答者 なお
こんにちは。長谷機械児様、いつもお世話になってます。
御句、ポケモンそのものは悪く言いたくないですが、あのポケモンGOはいただけませんね。アイデアは素晴らしい。開発に敬服します。
しかし、自分ではやりたくないし、やっている人を見たくもない。そんな目的で花野には来てほしくないです。
コメントから、長谷さんもそういう思いでお詠みになったと信じてお話を進めさせていただきます。
御句は、下五が「二人かな」と、ポケモン探しのお二人を詠嘆しておられますね。これは、「やれやれ、あの二人は花野まで来てポケモン探しをしているよ。しょうがないなぁ。しかし年寄りだし、まあいいか…」そういう感じの詠嘆ですよね?
それならわかるのですが、しかしそれですと、季語の、一生懸命に花を咲かせている「花野」が、何だか気の毒なような…。
もちろん長谷さんもそう思うからこそ、こんな二人に哀れを感じたのだと思いますが、この二人より花野を主役にしたいと思いました。
その点で、イサクさんの提案句
「ふたりしてポケモンさがす花野かな」
こちらに一票と思いました。「花野」以外がひらがななのは、「二人」は子どもということでしょうか?
しかし、自分でも提案句を置きたいので、下に置かせていただきます。花野を立たせたつもりです。
・ポケモンを目当ても来たる花野かな
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添削のお礼として、なおさんの俳句の感想を書いてください >>
現実的な花野…。奇想・幻想からいったん離れたい。
では、俳句に関わりない多くの現代的な人は、「花野」で何してるだろう?と想像したら、浮かんできたのが、こんな光景。まあ、しょうもないと言えば、しょうもないですが。
この「二人」、親子でなくて、案外、老夫婦だったりもする。