夕暮れの涸沼や鰡の跳ねし紋
回答者 卓鐘
文法ミス、口語・文語の混合(絶対NGではなくやるならその必然性が問われる)については、既出の通りなので、気になった点をいくつか。
・調べと句の内容
この句は調べに特徴がありますね。染「ま」る、ぬ「ま」、ぼ「ら」、「は」ねる、と「あ」の音が畳み掛けられていることと染「まる」は「ねる」の韻で、全体的にとても抑揚のあるリズムになってます。一方で、「夕暮れ」の寂しさがあるので、明るいイメージというより、夕暮れに一匹跳ねるそんなしづかな光景を詠みたかったのだろうなと推察。つまり、詠みたいことと(句の内容)と調べがマッチしていない印象を受けてました。
・「染まる」の是非
夕暮れの沼といえば、夕日には当然染まっていることは伝わるので、省略可能と言うのもありますが、それ以前に使い古された陳腐な表現と捉えられる危険があります。俳句は短い中に新たな言葉の発見を求める文学なので、作品としては減点ポイントになり得ます。「花びらが舞う」「紅葉が燃えるように咲く」などが該当します。
・固有名詞「涸沼」の是非
涸沼という固有名詞がどこまで効果があるか。ただ普通の沼だとボラはいなそうだし、河口とかだとなんか違う気がするし、涸沼はボラで有名のようだしで、いるような気もしました。
・「切れ」について
俳句では歴史的には以下の約束があります。
1、575の韻律であること
2、季語を一つ読み込むこと
3、切れがあること
どれも絶体ではなく、崩すのも技です。中でも3は、切れのない句は普通にいっぱいあるのですが、それでも基本ではあります。切れを作ることによって次の効果が生まれます。その効果をしっかり認識する、切れを入れたらどうなるかを考えることは重要と思います。
<切れの効果>
・韻律の調べが生まれやすい
・カットを変えることで句に動きが生まれ奥行きが出る
・特に切れ字を使うと余韻が生まれる
この句の場合も、夕暮れの沼の光景を見せて、跳ねるぼらに焦点を絞っていく方が効果的だと思います。
・「に」の使い方
場所を対象した「に」は、そこに止まるニュアンスがあるので、ここは切れじゃないとすると「涸沼を」でないと変だと思います。「公園に住む、寝る」はありですが「公園に走る、遊ぶ」ではおかしいのと同じです。はねるという一瞬の動作に、「に」は合わない。単に、〜に「はねる鰡(がいる)」なら自然です。
あまりうまくはないけれど以上を踏まえた提案句をおいておきます。
寂しげな空気なので、跳ねている一瞬ではなく跳ね終わっあとの波紋を詠んでもありかなという提案。
点数: 1
添削のお礼として、卓鐘さんの俳句の感想を書いてください >>
https://twitter.com/kurimonaka1/status/1438131940448620551
鯔(ボラ)は仲秋の季語でした。カワセミがいないかなと立ち寄った涸沼で小さなボラがはねてました。一瞬だけカワセミが来ましたがカメラを向けるとすぐに逃げてしまい戻ってきてくれませんでした。カワセミ待ちの間に撮ったボラで一句。
なおじい様
Twitterは誰でもなんでも好きにつぶやくところだと思ってます。私はリアルで周りに写真が好きな人、鳥が好きな人がいなかったので鳥の写真を撮ってツイッターにアップしていました。そして某番組に影響されて俳句を詠みたいなぁでもどこか評価してくれるところはないかなぁと検索してここにたどり着きました。
まずはここに投句して添削の後にとのご提案ですが、私の意図としましては写真と俳句が一体なのでツイッターで投句しない事には写真と俳句が一体にならないと考えてます。ここで添削していただきました句を再度、最初のつぶやきの返信欄にて再度出すのもいいですね。
イサク様
いつも添削をありがとうございます。擬人化・・・どうも癖のようです。常に頭において直していきたいと思います。また「秋燕また来年と見送りぬ」こちらの句が詠みたかったイメージ通りです。勉強になりました。
げばげば様
いつもありがとうございます。秋燕は季語として知りませんでしたが秋を入れたくて造ったつもりになっていました(汗。下五の言葉がメインになるのですね。本日の句はいかがでしょうか?