「妻であり母である人秋刀魚焼く」の批評
回答者 森本可南
こんにちは。知世さん。鷹司です。
御句の感想です。
とても客観視した句だと感じました。
ただ、たんたんと秋刀魚を焼いている。
妻でもあり、母でもある私の日常の光景を切り取ったものだと感じました。そこには、ある種の悲哀と日常を生きる幸せを感じ、どこの家も同じようなものだなあと。
点数: 1
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作者 知世 投稿日
回答者 森本可南
こんにちは。知世さん。鷹司です。
御句の感想です。
とても客観視した句だと感じました。
ただ、たんたんと秋刀魚を焼いている。
妻でもあり、母でもある私の日常の光景を切り取ったものだと感じました。そこには、ある種の悲哀と日常を生きる幸せを感じ、どこの家も同じようなものだなあと。
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回答者 負乗
知世様、こんばんは😐
ここは、「吾」が良いかな、と思いました。
「人」では、はっきりせず、インパクトがありません。作者の顔が浮かびました。
点数: 2
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回答者 たんせき
知世さん。感想、コメントありがとうございます。私も『とく』『とかす』など迷っていました。
知世さんのこの俳句、好きですよ。
これからもよろしくお願いします。
点数: 1
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回答者 卯筒
負乗さんと同じくで『人』より『吾』の方が良いのではないかと思います。
妻であり母であると言う表現はすごく好きな表現です。
点数: 1
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回答者 イサク
おはようございます。
距離感が狙ったところに着地しなかったのは、主語がない句で「妻」としたために、「自分の妻」というイメージがつくからですね。
ということで主語をつけてしまいましょう・・・それでも「自分の妻」という読みはつきまといますが、距離は離れます。
点数: 1
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回答者 げばげば
こんにちは。
いつも深いコメントありがとうございます。
なかなかおもしろい句ですね。
妻・母・人という言葉のチョイスは好きです。
これを見てる人はやはり配偶者である夫に見えました。
私もしりとり俳句で、「シクラメン妻の母へと変はるとき」という句を詠みましたが、こういう「妻」とか「母」とか役割みたいな枠の意味で書くとなんかとても客観的に見えるかなと思ったんですよね。「わたしを束ねないで」の詩みたいに、私を役割で名づけないで、みたいな。
普段は奥さんのことを〇〇ちゃんみたいな感じで呼んで認識している夫も、ある瞬間俯瞰で見てるときがあって、「妻」「母」「人」って見えてる瞬間があるというそういう句なんだろうと。
おもしろいと思います(^▽^)/
点数: 1
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優れた添削・批評は日本俳句研究会の記事として、転載、引用させていただく場合がございます。ご了承ください。
秋刀魚を焼いているのは誰なのか、そしてそれを見ているのは。
最初は秋刀魚を焼いているのが私、それを見ているのは私の父、というイメージでした。
父は小さかった娘がすっかり所帯染みて秋刀魚など焼いている感慨に圧倒されている。
次に浮かんだのが初恋の従姉を見る青年、というまるっきり妄想のイメージ。
「人」の距離感にはこれくらいが相応しいかと思いましたが、親や配偶者であっても少し遠くから客観視する瞬間はあるよなと。
まあ実際は「配偶者を見て夫が詠んだ句」にしか見えないかな〜と思いつつ。
「妻であり母である」ありふれたフレーズで読んだ人の心に誰かの顔が浮かぶかな〜と少し期待して作りました。