「フレンチの給仕高慢涼み床」の批評
こんにちは。
再登場失礼します!
夏蜜柑の句、早速コメントありがとうございます!
知世さん、深読みそのものです!
授業でどんなものも0をかければ0と習って、子どもたちが35×48×4800×0×103040×30201は?とか友達と問題出し合って、めちゃくちゃ難しい問題と見せかけて、「はい答え0でしたー」って言う遊びをやってる姿が句のスタートでした。
ただ、読みたかったのは深読みの方で、「うわ、0を掛けたらすべて0になるやん、、、」って改めて思って、ただの子供の計算学びなら、乗算とか夏期講習と消しゴムとかいろいろその描写に寄せていけばいいのですが、あえて、そこを描写までにしなかったという意図です。
自分の一つの行動ですべてを台無しにしてしまったり、一人の存在を掛け合わしてすべてが台無しになってしまったり、そういうこと多いなと。その酸っぱさと苦みを夏蜜柑と取り合わせたくてみようと。防人さんの「青檸檬」も面白いなー。季語動くかもなー。
以前「計画を総て捨てたる夏旅路」と詠んだ時に、映像をまったくない句で読者にすべてお任せはだめよとみなさんのご意見をいただいたので、光景も想像させようとしつつの挑戦でした、それができてない。
コメントに書いた通り、裏の意味とかチャレンジすると、どっちつかずになるんですよねー、きっと。子どもの計算の描写なら「夏期講習ゼロをかければゼロと知る」とかそれに寄せるべきで、深読みに徹底するなら、無季でも「ゼロをかければゼロと聞き膝を打つ」「ゼロをかければゼロと聞き絶句する」とかそれに徹底するべきで。
でも、目の前の少年をよみながら、そこはかとなくダブルミーニングできないかという句でしたが。これはどっちかにせー、って指摘されるパターンだよなーと。
いつも深いところまで読んでいただいて、読んでほしいように読んでいただいて拙句も喜んでおります!ありがとうございます(*'▽')
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兼題を詠む練習、と思ったのですが「納涼床」はまた独立した季語なんですね。
数年前鴨川沿いのお店に行った時の句です。
リアルいけずに慄いた記憶。
涼み床若き給仕の鼻柱
というのも考えたのですが分かりづらいかなと、でも「高慢」言い切るのは俳句的にどうなのかなとも。
「京の給仕の」とするのはdisが過ぎる気がしてやめました。