「夏近し僕は立派な自閉症」の批評
回答者 げばげば
添削した俳句: 夏近し僕は立派な自閉症
こんにちは。
いつも勉強させていただいています。
このスレッド、少し繊細なスレッドのように感じました。
人間100%同じ信条であるということはなかなか難しいことで、どんなコメントを書いても、そこは自分と考えが違うぞというところを見つけては揉めたりとかするような世界線に感じるからです。
げば自身も近親に障碍のある者が、とか、自分の仕事柄出会う人々のことや、自分自身の病気のことや、、とここでいろいろ語ることもできるかもしれませんが、この場所が自分語りの場所かどうかも分かりませんし、自分語りの発表を要求する場所かどうかも私にはわかりません。
ここからは俳句論ですが、
何を詠むのもNGがないのが俳句ではあると思う一方で、繊細なテーマを句にするときは、詠み手が思った通りのことが読み手に伝わるわけではない、鑑賞を相手に委ねるタイプの文芸である俳句には少し不向きであると感じるときもあります。
この道場に来て、すぐのころ、俳句に政治的信条を盛り込んだ句を詠んだときに、すぐになおじいさんにたしなめられました。「俳句は詩情を求めていかんとですな、げばさん」という言葉でした。「なんだとー、私の政治信条を(怒)」と思うこともできたのですが、私はなおじいさんの言葉になるほどそりゃそうだなあ。と感じました。読み手の心の湖に少し波立たせるような詩情という句とはかけ離れた政治信条の本位の句だと感じました。そんなことを言ってくれるなおじいさんに感謝もしました。
その後しばらく経って、「異教徒の碧き眼や渡り鳥」という句を詠んだこともありました。そのときも、なおじいさんから、「異教徒の碧き眼」のあたりの表現は大丈夫かい?初読ではどう受け取られるか?げばさんの力量なら詠みたい詩情をもう少しちがう形で届けられるのでは?と言ってくれました。そのときも、ハッとしました。なるほど、自分がこう思う!と思って詠んだ句が自分の手を離れたときに、ぜんぜん違うものとして伝わって、それが意図せず、誰かを傷つけたりすることもあるかもしれないということに気づいたからです。
いずれにしろ、俳句にはNGはないとはいえ、読み手にどう届くかを意識するようになりました。言葉は心の湖を波立たせるものであると同時に、人を悲しませたり傷つけたりする力もあると痛感したからです。
ケントさんの前の句、すぐにコメントにいけずすいませんでした。蜂という季語に私の鑑賞が追っつかず、ケントさんが思っていることとは全く違う句意で堂々めぐりしていたからです。読み手は自由に鑑賞するので、意図通り届かないといろんな思いする方がいるかも、と思って、そう書こうかどうかと迷っているうちに、イサクさんが先にコメントに行ってくれていました。イサクさんの言葉は時にストレートですが、他意のない方だと長い付き合いで私は思っています。私がここまで書いてきた俳句論的なことを言いたかったのではないかと勝手に推察しています。(ちがったらすいません)
誰が先に俳句以外の議論に踏み込んだということは抜きにして、ケントさんが俳句大好きで戻ってこられたのも知ってますし、ケントさんと今後も俳句のそして詩の話をたくさんしていけたらと思っています。
長々と書いてすいません。言葉には気をつけましたが、この文章を不特定多数の方が読んでいると思うので、私にも他意はない、ただ俳句が好きなだけだということをお詫びとして付け加えさせてくださいませ。
こういうときなおじいさんが常駐してるなら、、というところですが、今はお忙しいシーズンですので、若輩が失礼しました。よろしくお願いいたします。
点数: 9