「勝ち負けを超へて称ふるパリの虹」の批評
添削した俳句: 勝ち負けを超へて称ふるパリの虹
こんにちは。
> 二人称の、父や子がある為に誤読が生じやすいと思います、私もルンバが追っかけてるかと…それに、掃除機が目立って
> 夏休みの季語が立っていないようにも…
> (略)
> 誤読を防ぐ為には、なおじいさんの提案句のように、や、できる方がいいと思いました。
(1)「二人称の、父や子がある為に誤読が生じやすい」
「二人称」(続柄のことと思います)の使い方をどうしたところで、作中主体が句の中に登場しているか、景を見ている(回想する)第三者かは、いろいろです。句の中に言及した「父」「母」「子」と主体との関係の正確さも、いろいろです。
Webで検索した「父」「母」「子」の句を挙げておきます。
残る虫仮寝の母子相抱く/石田波郷 (主体は観察者。「母」(=妻)と子を見ている)
ねんねこに母子温くしや夕落葉/中村汀女 (主体=「母」)
稻刈るは父こぐは母這ふは子よ/正岡子規 (主体は観察者あるいは過去の回想か)
(2)「ルンバが追っかけてるかと」
おかえさん以外にもコメントに「ルンバ」が出てきて、「はて、ルンバって何だっけ?」と数秒考えて、「ああ、そういえば世の中にはこんなものもあったのだな」と思い至った次第です。作句時からここに投句してコメントを見るまで、ロボット掃除機という最新鋭の“文明の利器”(未だ実物が稼働している姿を私自身は見たことがない)のことは、まったく脳裏に浮かびませんでした。
ロボット掃除機というものがない世界、「掃除機が勝手に家人を追いかけるわけがない」という前提に立っていないと、確かに私の作句時のようには読まれないのでしょう。これは、仕方の無いところです。
(3)「夏休みの季語が立っていない」
次に、「季語が立つ」という言葉は、私は最近疑っております。以前は解った気になってそんな言い回しも使っていましたが、季語も非季語もフラットに捉える必要があるのではないかと考え始めています(もちろん、季語としてしか存在しない雅語の類は、特別扱いしないことには句として成り立たないことは承知していますが)。
この句は、夏休みあるあるから考え始めた句(発想は類想ど真ん中である自覚の元に作句)なので、句の中心は確実に「夏休」であるつもりです。そして(作句時に想定したマンガみたいな景からすれば)「夏休み」を取り合せ句のように下五に付け足すのは真っ先に捨てるべき形でした。その形は「○○○○、ということがあった夏休みでした」という報告調の絵日記みたいで、元のマンガみたいな景を、輪を掛けて陳腐にしてしまいます。
(4)「誤読を防ぐ為には、」
「誤読を防ぐ」については、改めて防ぐ必要はないかも、とも思っています。意外と、誤読によって入選となった句もあるのではないか、とも感じているので。むしろ、景をはっきり示しすぎると言葉をつまらなくさせるとも感じます。
また、誤読を防ぐためにすべきことは、切れ字「や」よりも、読みから「ルンバ」を除外する補助線のような表現なのでしょうが…、ちょっとすぐには思いつきません。
* * * * *
御句についてもコメントしたいところですが…。
私は、パリ五輪のテレビ放送をトータル5分も見ておらず、パリ五輪の出場選手に対する共感をそもそも備えていないので、内容にはあまり言及出来ません。
ただ、季語「虹」に称賛を期待するなら、命令形もよいかも、とは思いました。
勝ち負けを超えて称へよパリの虹
よろしくお願いします。
点数: 1