「戦争は愚なりトマトは真つ赤なり」の批評
回答者 卓鐘
パズルコメントありがとうございました。いろいろコメントいただいたので、私なりの見解を述べます。
まず大前提として、俳句は文学作品・芸術作品であるため絶対の基準なんてどこにもありません。なので究極、作者が俳句と主張すればそれでいいわけです。
ただ、俳壇で評価されるか否かというと別問題です。どんなものが評価されるかは、選者によっても、時代によっても全然違うでしょうし、有力な俳人が新しい道を作るなんてこともしばしばあるでしょう。その上で。
1)口語俳句について
季重なりに昔は寛容だった。。。いえいえそんなことはないはずです。そして現在も季重なりはダメとは誰も言っていないかと。(不用意に、下手に使うのは)ダメであって(どうせ初心者は使いこなせないから)やめとけ。ということだと思います。
3)何を俳句と呼ぶべきか
これは人によって分かれるところで、それでいいと思います。いろんな考え方があります。特に、川柳と俳句の違いなんかはかなりグラデーションがあります。(俳句でもり川柳でもあるなんてことももちろんある。)そして、解釈も時代によって変わっていくでしょう。芭蕉の時代からいろいろと議論はあるようです。芭蕉なんか名所が読み込まれれば、無季でも構わないという話もあったそうですし。
「切れ」「17音」「季語」俳句の約束であって絶体ではない。という考えです。
私は、詩と作者独自の発見があるか。これを基準に考えています。(そしれその基準は恣意的なものです。芸術なんてそもそも恣意的なものです。)
「戦争が廊下の奥に立つてゐた」これは誰もが認める名句ですね。俳壇で多くの人が認めるなら、それは間違いなく俳句でしょう。言葉の定義なんてものは、多くの人による共通認識そのものなので。
「戦争は女の顔をしていない」が俳句として提出されていたのならば、十分俳句として認められる可能性はあったでしょうから。なぜなら、詩の分量が圧倒的だから。
川柳も俳句か。これは、滑稽・風刺などが詩情を大きくうわまるようであれば、俳句として提出されても、それは川柳だねという評価となるでしょう。逆に川柳として提出してもそれは俳句だねという評価になることもあるでしょう。
標語は、これも俳句として提出されたら、詩の分量より、教訓や何かの要求のような意図しか前面に出てないならば標語だねという評価になるでしょう。
「一二三四五六七八九十十一十二十三十四」には、この不思議に繋がる漢数字の字面に詩情は感じますが、どこまで理解され受け止められない可能性はあるでしょう。「一二三四五六七八九」は詩情が弱く感じます。俳句として認められる可能性は少ないかと。
4)取り合わせの距離
確かに、離れすぎと明確に書かれている評は見たことありません。それには二つ理由があると思います。
・インスピレーションを受けて取り合わせて提出する以上、つきすぎることはあっても離れすぎって早々に起きにくい。特に初心者はそんな大胆なことできない。
・離れすぎは別の言葉で指摘されている
「季語との位置関係がわからない」「屋外の季語と室内の取り合わせは状況がわからない」などなど
点数: 3
添削のお礼として、卓鐘さんの俳句の感想を書いてください >>
著名な俳人が、入門書や解説動画の中で「一物仕立てより取り合わせの方が作句の難易度が低い」と言っているのですが、「取り合わせ」で壁になるのが「即きすぎ/離れすぎ」。
「トマト」題で取り合わせの句を作ってみました。これは即いているのでしょうか、離れているのでしょうか。
「戦争」と「トマト」は無関係な事物ではありますが、「戦争→(血 or 火)→真っ赤→トマト」の連想は容易に出来そうです。