俳句添削道場(投句と批評)
長谷機械児さんのランク: 師匠111段 合計点: 452

長谷機械児さんの俳句添削依頼

最新の投稿順に並んでいます。回答が付いた投稿が先頭に移動します。

上人の御像は焼けて草の絮

回答数 : 1

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こつちにも都合はあつて都鳥

回答数 : 2

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寺男と云へば蛾次郎鰯雲

回答数 : 3

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ドロップのカンカン錆びてゐて残暑

回答数 : 6

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松山やそれにつけてもぽてち買ふ

回答数 : 2

投稿日時:

長谷機械児さんの添削

「いちめんの曼珠沙華咲く瀬音かな」の批評

添削した俳句: いちめんの曼珠沙華咲く瀬音かな

こんにちは。

「咲く」とか「瀬音かな」とか、気になる箇所はすでに他の方に挙げられているので
新たな添削はしないでおきます。

コメントにある言葉を使って中七「曼珠沙華」の句を拵えてみました。

 楽しくて曼珠沙華ただ直立す

よろしくお願い致します。

点数: 0

「勝ち負けを超へて称ふるパリの虹」の批評

添削した俳句: 勝ち負けを超へて称ふるパリの虹

こんにちは。

> 二人称の、父や子がある為に誤読が生じやすいと思います、私もルンバが追っかけてるかと…それに、掃除機が目立って
> 夏休みの季語が立っていないようにも…
> (略)
> 誤読を防ぐ為には、なおじいさんの提案句のように、や、できる方がいいと思いました。

(1)「二人称の、父や子がある為に誤読が生じやすい」

「二人称」(続柄のことと思います)の使い方をどうしたところで、作中主体が句の中に登場しているか、景を見ている(回想する)第三者かは、いろいろです。句の中に言及した「父」「母」「子」と主体との関係の正確さも、いろいろです。
Webで検索した「父」「母」「子」の句を挙げておきます。

 残る虫仮寝の母子相抱く/石田波郷 (主体は観察者。「母」(=妻)と子を見ている)
 ねんねこに母子温くしや夕落葉/中村汀女 (主体=「母」)
 稻刈るは父こぐは母這ふは子よ/正岡子規 (主体は観察者あるいは過去の回想か)

(2)「ルンバが追っかけてるかと」

おかえさん以外にもコメントに「ルンバ」が出てきて、「はて、ルンバって何だっけ?」と数秒考えて、「ああ、そういえば世の中にはこんなものもあったのだな」と思い至った次第です。作句時からここに投句してコメントを見るまで、ロボット掃除機という最新鋭の“文明の利器”(未だ実物が稼働している姿を私自身は見たことがない)のことは、まったく脳裏に浮かびませんでした。

ロボット掃除機というものがない世界、「掃除機が勝手に家人を追いかけるわけがない」という前提に立っていないと、確かに私の作句時のようには読まれないのでしょう。これは、仕方の無いところです。

(3)「夏休みの季語が立っていない」

次に、「季語が立つ」という言葉は、私は最近疑っております。以前は解った気になってそんな言い回しも使っていましたが、季語も非季語もフラットに捉える必要があるのではないかと考え始めています(もちろん、季語としてしか存在しない雅語の類は、特別扱いしないことには句として成り立たないことは承知していますが)。

この句は、夏休みあるあるから考え始めた句(発想は類想ど真ん中である自覚の元に作句)なので、句の中心は確実に「夏休」であるつもりです。そして(作句時に想定したマンガみたいな景からすれば)「夏休み」を取り合せ句のように下五に付け足すのは真っ先に捨てるべき形でした。その形は「○○○○、ということがあった夏休みでした」という報告調の絵日記みたいで、元のマンガみたいな景を、輪を掛けて陳腐にしてしまいます。

(4)「誤読を防ぐ為には、」

「誤読を防ぐ」については、改めて防ぐ必要はないかも、とも思っています。意外と、誤読によって入選となった句もあるのではないか、とも感じているので。むしろ、景をはっきり示しすぎると言葉をつまらなくさせるとも感じます。
また、誤読を防ぐためにすべきことは、切れ字「や」よりも、読みから「ルンバ」を除外する補助線のような表現なのでしょうが…、ちょっとすぐには思いつきません。

    *    *    *    *    *

御句についてもコメントしたいところですが…。

私は、パリ五輪のテレビ放送をトータル5分も見ておらず、パリ五輪の出場選手に対する共感をそもそも備えていないので、内容にはあまり言及出来ません。

ただ、季語「虹」に称賛を期待するなら、命令形もよいかも、とは思いました。

 勝ち負けを超えて称へよパリの虹

よろしくお願いします。

点数: 1

「八月や伯父の戦死を子ら知らず」の批評

添削した俳句: 八月や伯父の戦死を子ら知らず

こんにちは。

> 私はこの道場で、俳句の読み手は自分だ、俳句は一人称だと教わりました。
> (略)
> 掃除機をかけているのが誰かは書かれていませんが、この句から一般的に想像すると、お母さん(奥さん)になるのではないでしょうか。

「掃除機」の句について、作中主体の位置は、そんなマンガのような家族の風景を見ている(思い返している)第三者視点の「私」のつもりでいます。父でも子でも掃除機を持った母でもなく(あるいは過去には、そんな父や子や母だった「私」)。

「俳句は一人称」(作中主体≒作者)というのも、多くの読み手がそのように読むというコードであり、例外はあるので(※)、主体が「私」でない読みもあって良いかも知れませんが。

※「俳句は一人称」の例外と言えそうな有名俳人の句としては、
  毎年よ彼岸の入に寒いのは/正岡子規 (子規の母の発言)
  安々と海鼠のごとき子を生めり/夏目漱石 (子を産んだのは漱石の妻)

御句について(俳句の中の「人」に関する話をしたので、直近の句でなくこちらに)。

「伯父」と対置するように「子ら」とありますが、「伯父」は続柄であっても、「子ら」は「ら」があるだけに続柄ではないように思いました。「子ら」というのは、言い換えるなら「自分の子・孫世代の、近しい人々」ではないかと。

抗いがたい情報伝達の劣化。経験者、語り部の高齢化、減少といった社会的メッセージの句と受け取りました。

添削としては、「子ら」については「あらちゃん」さんの添削案(下五を「知らぬ子ら」にする)に賛成です。また、子らが知らない(子らに知ってほしい)ことは、「伯父の戦死」(という過去の一事)というより、「戦死の伯父」(が居たこと)ではなかったかと考えて、

 八月や戦死の伯父を知らぬ子ら

よろしくお願いします。

点数: 1

「競り負けて聞こゆ校歌や雲の峰」の批評

添削した俳句: 競り負けて聞こゆ校歌や雲の峰

こんにちは。

この句に対し、定石として指摘すべきは「動詞が多い」だと思います。「競って」「負けて」「聞こえる」という順を追った動詞の並びが、この句全体を報告っぽく感じさせます。

この3つの動詞で何れが一番大事かとなると「負ける」だと思います。どんな負け方をしたか(これまでの経過)は読み手の想像にに任せてよい所と思います(流れてくる校歌を気に留めて「これが自校の校歌だったなら」と思えるとしたら、それが接戦だった、十分に勝つ可能性のある試合だったのだ、とも読めます)し、「聞こゆ/聞く」は「歌」に対しては特に書く必要のない言葉と見えます。「競る」「聞こゆ/聞く」のどちらかは削って良いと考えます。(両方削るのは“添削”としてはやり過ぎな気もするので…)

削って音数を稼いだところに補うべき情報は、「校歌」が“相手校の校歌”だということだと思います。

 負けて聞く相手の校歌雲の峰
 
 競り負けて相手の校歌雲の峰

季語「雲の峰」は取り合わせたものと思いますので、選手自身に見えているかどうかはあまり考えなくて良いと思います。次回のリベンジに心を奮い立たせる感じとも、このすぐ後に選手達に訪れる悔しさの嵐の予感とも、受け取り方はいろいろありそうですが。

・「テレビ鑑賞を俳句に詠むこと」について。自分の直接経験していないところから句を作るというのもアリだと思います。先日の俳句甲子園や、(私は経験ありませんが)句会の“席題”といった場を考えると、そこでは実物を見て句作している余裕などありません。過去の記憶や知識から作るのは当然アリで、その情報源としてのテレビもまた然りです。
 …ただ、テレビの情報は、(特にドキュメンタリーやドラマなどは)既に他者の編集が入ったものだという点は注意が必要かとも思いますが(感動したところをそのまま詠んでも、誰かの思考を思惑通りになぞっているだけ、という可能性大)。

よろしくお願いします。

点数: 1

「蝶拾つたうごかなかつた吾子の秋」の批評

添削した俳句: 蝶拾つたうごかなかつた吾子の秋

こんにちは。

個人的には、良い句だと思いました。

上五中七を「蝶拾った。動かなかった。」という、子の発話として読みました。
そうしたとき「うごかなかつた」を句の中に取り出したことに、まだ“死”を理解できていない(これから理解していく)子が“死”と接した事件を描き出した表現であるように感じました。

季語については「秋」の句ということでよいのではないでしょうか。
 (私は「秋の蝶」の句とも捉えてよいように思いますが、季語を分けることを嫌う人もいらっしゃいますから…。)
 ちなみに、季語の動物が死んでいる表現でも、季語と認められることはあります。(以前、題「鰆」で「変死体」(鳥に食べられて尻尾だけになっていた…)とかいう内容の句を投じて佳作選だった経験があります)

・「吾子」という語については、goo辞書の例文(青空文庫から引っぱっている模様)では、伊藤左千夫や宮本百合子といった作家の口語文で使っている例が出ているので、問題ないかと思います。

添削なんて必要ないくらいと思うのですが、読み手に対し、子の発話と解るような工夫は何かないか、と考えて、

 蝶々拾つたうごかなかつた吾子の秋
 (↑子どもらしく「ちょうちょ」と読ませたい。が、旧かなでは無理な表記なので、「々」の追加だけ)

 蝶々拾た動かんかつた吾子の秋
 (↑方言にして「吾子の秋」の硬さとの間に差をつける。「ひろた」はルビが必要かも)

 蝶々拾たけど動かへん吾子の秋
 (↑さらに三段切れっぽさ解消を図る。が、やり過ぎな気もする)

よろしくお願いします。

点数: 2

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