永久樹の魔女
作者 あすく 得点 : 1 投稿日時:
それは、永久樹と呼ばれていた。
ある者は天地創生より生える大樹と呼び、ある者は異なる世界へ通じる架け橋と呼んだ。
しかして、その正体はいまだ不明。わかっているのは、永久樹が膨大なエネルギーを内部に循環させているということ。そして、そのエネルギーを扱う女性達が、永久樹に居を構えているということだけである。
永久樹の領域の内側。大きな枝が二本、交差するように伸びる一画が存在する。翠と蒼の枝辻と呼び習わされるその場所に、一つの洞が口を開けているのである。そこは緑石の工房と名付けられている。
朝の光が永久樹の枝葉を貫いてくるころに、工房の扉が開いた。中から顔をのぞかせたのは、一人の女性。ここ緑石の工房の主たる魔女、その名もエメラダ・エメリアである。名は体を表すというが、まさにその通り。緑の髪に緑の瞳を持っている彼女は、緑石の魔女という称号をすら持っているのである。
緑石の魔女は、朝陽に手をかざして目を細める。本日も晴天なり。天を貫く巨大な永久樹は、中腹ともいえるここ翠と蒼の枝辻でも、下手な雲を突き抜ける高度がある。魔女が視線を落とすと、遥か眼下に雲海と山が見えた。
「あら、エメ。おはよう」
どこからともなく、そんな朗らかな挨拶が聞こえてくる。緑色の魔女はそれを無視して、辻の一部に溜まっている朝露の泉から水を汲み始めた。
「こらこら、おはようの一言もないの、エメ」
「黒曜。キミに話しかける必要を、今は感じないんだ」
少しだけ振り向いて、エメラダはそう言い放った。視界に入るのは、真っ黒な塊。髪も瞳も、服も帽子も、纏う気配さえ漆黒。黒曜石。そう呼ばれている、永久樹の魔女の頭領の一人である。
「ずいぶんな言い草ね。せっかく朝の素晴らしいひと時をご一緒しようとやってきたのに」
闇そのもののような黒影が、肩をすくめながら言う。表情などまるで見えない。しかし、エメラダはその下の童顔へ視線を貫かせた。
「その闇、脱いだら? いつも思うんだけど、それ、暑いんじゃないのかい?」
「ご忠告、痛み入るわ。でも、外ではこのままでいいのよ」
「そうかい」
意味があるのかないのか、小さく言葉を切って沈黙するエメラダ。黒曜石はその隣りへ並んだ。黒曜石の小柄な体は、頭の位置がちょうどエメラダの肩までしかない。水汲みを終えた緑色の魔女の横から、その小さな体を伸ばして桶をのぞき込む。黒い魔女が、感嘆の声を上げた。
「相変わらずここの泉は良い水を湛えるわ」
「だから住んでるんだ」
エメラダはそっけなく応じると、工房のドアを開いた。何の疑問もなく、そこへ入っていく黒曜石。止めても無駄、ということはエメラダもよくわかっている。
「参ったな。一人分余計にトーストを焼かないといけなくなった」
そんな風に呟いて、でもどこか楽し気にエメラダは工房へと入っていった。
「ああ、暗いところは落ち着くわ」
「落ち着きたいなら、自分の工房へ帰るといいよ」
開口一番に放った黒曜石の一言へ、エメラダの辛辣な返しが突き刺さった。そんなことなどお構いなしとばかりに、黒曜石はテーブルへ腰かける。工房に窓はなく、エメも起きたばかりで、炉の光だけが室内を照らしているのである。
「嫌よ。その炉はなかなか面白い。私たちでも再現できない構成の炉を見たの、久々だったもの」
足をぶらぶらさせながら、黒曜石。エメラダの使う椅子は高めのため、彼女の足は床に届かない。さながら小さな子供のよう。知らぬ者が見たら、とてもこの少女が、全世界の魔女の頂点に立つ永久樹の最高位とは思わないだろう。その永久樹の最高位をして、再現不能と言わしめる緑石の炉は今、その性能をいかんなく発揮して、トーストを焼いている最中だ。
「贅沢なトーストね」
「道具は使ってこそ。中身は普通のパンさ」
「といいつつ、中身も一級品だから困るわ」
「ハードルを上げないでくれるかい?」
戯れながら食事の準備をする。汲んできた水を鉄瓶へ移すと、これも炉へかけて湯を沸かす。すぐに、コポコポと音を立て始める鉄瓶。
「コーヒーはブラックで良かったかな?」
「それは苦いものが苦手な私への挑戦と受け取っても良いのかしら?」
「冗談だ」
「知ってるわ。ミルクとお砂糖、ふんだんに使ってちょうだいな」
「私が一年で使うのと同じ量を一週間で使い切るキミは異常だと思うんだ」
げっそりしつつ、エメラダは黒曜石向けの超お子様コーヒー(とエメラダは呼んでいる)を調合した。湯気の立つマグカップを二つ、テーブルに並べる。黒曜石は、そのマグカップへ向けて、極星の果てより極寒の冷気を召喚して吹き付けた。
「いつも思うんだけど、その超高等魔法をコーヒーを冷ますためにぶっ放すのはいかがなものかと……」
「猫舌だもの、仕方ないわ」
拗ねたような、そんな表情をされると、エメラダは言葉に困る。舌のみならず、中身も猫ではなかろうか。そんなことさえ思い浮かぶ。
「で?」
コーヒーとトーストの用意されたテーブルに自分も座り、エメラダが一言訊いた。
「どこに出かけるんだい?」
「あらやだ、気が付いていたの?」
「当たり前じゃないか。キミの闇の重さと深さが、普段の1.3倍だ。余所行きだろう?」
エメラダが口にした質問の理由。黒曜石の纏う闇が、余所行きのものであることに気付いていたからである。
「呆れた。これがわかるのは、貴女くらいよ、エメ」
「伊達に付き合いが長いわけじゃないよ」
エメラダの言葉には、実感が伴っていた。その中のほんの僅かな揺れを、黒曜石も感じ取る。
「擬天宮」
「なんだって?」
黒曜石の言った単語に、エメラダは驚いた。擬天宮とは、永久樹と対をなすとまで言われる、魔術の僧院だ。永久樹が魔女の殿堂ならば、あちらは魔術師の男性が集う殿堂である。その擬天宮へ、永久樹の頭領が出向く用など、そうそうあるものではない。
「面倒なことに、ね。あの魔境に行くのは、できれば遠慮したいんだけど」
黒曜石は、それはそれは嫌そうに言った。その理由もエメラダには少しわかる。なんだかんだと面倒見の良い性格の黒曜石は、頭領達の中でも損な役回りを背負うことが多いのだ。
「また押し付けられたの? 私が他の色付きをどついてこようか?」
「気持ちだけ、受け取っておくわ」
諦めの滲む黒曜石の言葉。エメラダは、そっとコーヒーのお代わりのために湯を沸かし直した。永久樹の頭領も大変なのだろう。エメラダが色付きと称した通り、永久樹の頭領たちはそれぞれの色にちなんだ名を名乗っている。エメラダもまた、緑石の名で呼ばれており、対外的には色付きと見做されてはいるが、彼女は自由を対価に頭領の座を拒否したのだ。
「それで、今から行くの?」
「ええ、最期の挨拶に寄ったのよ」
「最期って、そんな物騒な案件なのかい?」
「さぁ? どんな案件なのかわからないわ」
「そう」
それを最後に、二人の間に沈黙が流れる。しばらくの間、緑石の工房内は、トーストを噛む音と、コーヒーを啜る音に支配された。やがて黒曜石が席を立つ。
「ありがとう、エメ。美味しかったわ」
「ああ。もう行くのか」
「そう、もう行くの」
そのまま、闇を纏わせて出口へ向かう黒曜石。エメラダも立ち上がると、食事の後片付けを始める。その緑の姿を目に焼き付けるように、黒曜石は視線を注ぐと、その後に静かに出て行った。
「さて」
片付けを終えたエメラダは、黒曜石が既に立ち去ったことを知っていた。自分も翡翠の色をした外套を手に取り、大きな鞄を肩にかけると、炉の出力を絞る。出かける準備を終えたエメラダもまた、外の光へと歩を進めて行った。
エメラダが外に出ると、工房の周りに緑の服を着た魔女が何人か集まっていた。頭領の座を辞したとはいえ、エメラダは色付きである。本人にそのつもりなどないのだが、周りに妙に慕われた結果、気が付くと緑石派なる派閥のトップに祀り上げられていた。その緑石派の魔女たちが、エメラダの工房の周囲へ集っているのである。彼女たちは、エメラダに気付くと、口々に声をかけてきた。
「おはようございます、緑石さま」
「今朝もいいお天気ですね、エメラダさま」
「へぇーい、エメ姉さん! 本日も麗しの極みにござりまするのぉー!」
「みんな、おはよう。またぶっ飛んでるのもいるね」
緑石派は、派閥と名がついているものの、実態は自由同盟のようなものだ。既存の組織に囚われない、自由を模索する者たちの集い。頭領を蹴ったエメラダへの、ある種の憧れでまとまるファンクラブなのである。そのため、エメラダへ声をかけさえすれど、その歩みの邪魔をするメンバーはいなかった。
「そういえば、黒曜さまがあちらへ向かわれました」
その中の一人が、エメラダ欲していた情報を提供してくれる。ありがとう、と言葉を返して、エメラダはその方角へ進む。旅支度のエメラダを見た緑石派の魔女たちは、彼女の次の行動が予めわかっているかのようだ。
エメラダの姿が、枝の先に消えると、緑石派の魔女たちは顔を見合わせて、笑う。
「黒曜石さまの後を追うつもりですわね」
「あれでなかなかお二人とも素直じゃありませんからね」
「本当に。見ている方は二人仲が良いとすぐわかりますのに」
そんなこと、当の本人もわかっているのだろうが。
エメラダが永久樹の外れまで来ると、そこには誰の姿もなかった。予想の範囲内である。擬天宮と比較して自由な雰囲気を持つとはいえ、頭領の一人が外遊するのだから、色々となすべきこともあるのだ。今頃黒曜石は、そんな形式的な要素にげんなりしているのであろう。彼女専用の超お子様コーヒーをたっぷり入れた水筒を、所在なさげに弄りながら、永久樹の枝に背を預けて待っていると、しばらくして夜の闇よりも尚濃い漆黒の塊が近付いてきた。
「あら、エメじゃない。今朝ぶりね」
「やあ、黒曜。今朝ぶりだよ」
「何してるの、こんなところで?」
「実は私も旅に出ることにしたんだ」
「へぇ」
それだけ言って、黒曜石がエメラダの横を通り過ぎる。黒曜石のすぐ後ろに、エメラダは並んで歩きだした。
「エメ」
「ん?」
「遠いわよ?」
「準備はしてきたさ」
「そう」
短い言葉ではあるが、互いの言わんとすることは、それぞれがよくわかっている。二人の距離感は、このくらいなのである。
「ありがと、エメ」
「気にしなくていいさ、黒曜」
丁度、このくらいなのである。