Megaptera stratosferaの第2話 全4話で完結
Megaptera stratosferaの第2話
作者 まだあたたかい 得点 : 2 投稿日時:
見上げれば漆黒の空。今は真昼だというのに、その青黒い空の向こうでは星々が瞬きもせずに輝いている。キャノピーを開けて手を伸ばせば、星々の世界すら簡単に掴めそうだ。
高度三万メートル。
眼下には精緻に書かれた絵画のように地上が霞んでいる。ここはもはや宇宙の入り口だった。
「こちら、カモメ一号。パスファインダー三号、当機とクジラの現在位置を確認したい。当機の現在高度は三万mを超えた」
ヘルメット内につけられたマイクにつぶやく。支援機であるパスファインダーは名前こそ先導機(パスファインダー)などと呼ばれているが、眼下遥か二万m、つまり高度一万mの位置をのんびり飛んでいるはずだった。
電波探信儀による飛行物体の追跡機能を持った彼らが俺の目だ。高々度を高速で飛ぶ「クジラ」を目視のみで追跡することは難しかった。巡航速度時速二千㎞を超えるカモメ――高々度超音速観測機である当機をもってしても、目視で捕捉後に追跡することは不可能だろう。その軌道をあらかじめ測定し、高度三万mで待ち構え、支援機からの情報を得なければ「クジラ」に追いつくことはできない。そして、今までヤツに追いついた人類はいないのだ。果たして俺は初めての人類になれるだろうか。
いや、絶対になってやる。
俺のオヤジはまだろくな研究も進んでいなかった高々度飛行の黎明期に、あのクジラを追ってこの空を飛んでいた。今から考えれば蛮勇としかいえないが、クジラという夢がオヤジを、いや人類をこの空まで引っ張っていたのだろう。
オヤジはその夢の途上で死んだ。酸化剤の異常燃焼が原因だった。あの頃、本当に高々度飛行は無茶な冒険だったんだ。俺はオヤジの顔を知らない。まだ赤ん坊のうちにこの漆黒の空に消えたオヤジの姿は残されたおふくろの記憶から紡ぎだされ、幼い俺の心の中に蓄積されていった。
俺はどうあってもあのクジラを追わなければいけない。あいつが何なのか、この目で見なければ死ぬに死ねないのだ。
「カモメ一号ヘ。こちらパスファインダー三号」
かすれた音声が届く。青黒い前方の空を凝視しながら、俺はいつのまにか物思いにふけってしまっていたようだ。深呼吸して酸素マスクに流れ込む金属臭い空気を深く吸う。
「こちらカモメ一号、どうぞ」
「高度そのまま。進路を212度に変更しろ。推進剤の残量はどうか」
「推進剤残量は……まだ六割ある」
「変針後増速してもらう。どうもヤツは増速しているようだ。……今までこんなことはなかったんだが、まったく読めんやつだ」
「進路212度変針了解。邂逅時間はあとどれぐらいか。燃料を無駄にしたくない」
「邂逅時間は数分後の可能性もある。増速のタイミングはこちらで出す。観測機材は正常か」
このカモメは後部座席を取り外して無理やりカメラなどの観測機材を取り付けていた。そこには本来観測員が乗るはずだったが、重量過大でそれもキャンセルされてしまったのだ。今のところ期待通りの飛行性能を出してはいるが、観測機カモメはまだ試験機といっていい程度の発展途上の機体だ。
しかし……邂逅時間は数分後だと?予定ではまだ余裕があったはずだが、思ったより状況は変化しているようだ。いずれにせよ、全力を尽くすのみ。
十秒間、たった十秒間だ。その間ヤツを搭載されている観測カメラが追跡できれば、おれの任務は成功だ。ただし、その間は最大スロットルで推進剤を燃えるに任せて消費するしかない。
「来たぞ! 進路そのまま。高度そのまま。速度を時速二千二百に増速」
「了解」
ついに来たか。はやる心を押さえてなるべく冷静にスロットルを開く。
「さらに増速した! カモメ1号、最大推力でいけ」
なんだと。いったいあいつはどこまで速度が出せるんだ。
文明が始まって以来、いやおそらくそれ以前から人類はヤツを追ってきた。我々の文明の進歩はヤツを追いかけて進歩した。遠からず我々の科学は大気圏を超えて宇宙に達するだろう。それでもまだ、俺達はヤツのことをこれっぽっちもわかっていない。
最大推力を吐き出すエンジンが邪悪な猛獣のようにうなり声を上げる。不気味な振動が機体を震わせる。だが、カモメはまだ行ける。
その時、あの歌が聞こえた。
希薄な空気を通って、キャノピーとヘルメットを貫いて。
この歌は音ではない。では何なのかといってもそれすらまだわからない。
この星に生きる者には知らぬものとてないあの歌。そもそもこれは歌なのか。だが、我々はこれを歌として感知する。
速度計は時速二千四百㎞を示していた。ほぼ最大速度だった。
歌が強くなる。
狭いコックピットの中で振り返った。
遠く遠く、遥かに遠く。小さな白い点が遥か後方から近づいてくる。
それはみるみる大きくなって、やがて視界全体を覆い隠した。
クジラ。確かにそれはクジラだった。白といえば白、赤といえば赤。青といえば青にも見える。絶えず変化を続ける螺鈿の輝きを体表面に踊らせて、それは飛んでいた。
「待て……待てよ!」
知らずのうちに叫んでいた。
限界まで引き上げているスロットル。狂ったようにうなるエンジン。悲鳴を上げる構造体。だが、そんな必死の努力も、いや、人類すべての労苦を笑うようにヤツは飛び去ろうとしていた。
歌が聞こえる。
超越者のささやきなのか、悪魔が誘う魔歌か。
それともあれは子守唄なのか。
クジラ。メガプテラ・ストラトスフェラ。
今まで検知したことない速度でやつは飛び去っていった。観測機器が十分なデータを得る前に。
人類が決して追いつけない、幻のクジラ。
俺たちはそれでも、ヤツの後姿を追いかけなければならない。
「……そうだろ、オヤジ」
「……カモメ一号、通信が乱れてうまく聞こえない。もう一度頼む」
「カモメ一号、推進剤が尽きそうだ。これより降下する」
俺はもう一度、ヤツが消えた空を見上げた。
オヤジの魂が今もアイツを追いかけて、あの幻の後ろを飛んでいるような気がして。