「春雨や音も沁み入る清洲橋」の批評
村井もこりさん、こんばんは。佐和さんへの書き込み、拝見しました。
ChatGPTでお調べとの事ですが、AIの回答を鵜呑みにして答えるのは
どうかと私めは思います。古語辞典などの一次資料を調べましたのでしょうか?
私めは古語辞典で調べた上でコメント書いております。
時代と共に自動詞「満つ」の活用が増えた事位、私めは承知の上で書いております。
手持ちの『ベネッセ全訳古語辞典』1159ページの記述によりますと、
「自動詞「満つ」は中世以降、上二段にも活用する。また、他動詞「満つ」は
中世以降は使われなくなり、四段活用の「満たす」が使われるようになった」と
書いてあります。
あなたがお書きの「「満つ」は特別な動詞で、
平安時代は下二段活用だったそうです。
それが時代とともに四段活用に変わって来たのですが、
満つる盃
満つる月
満つる香
のように連体修飾の形だけは残って来たとの事です。
この場合の「る」は助動詞ではなく「満つ」の語尾です。」
上記の根拠となる、AI以外の一次資料(出典)をお示しください。
私めは「自他同形での意味の違い」の話をしております。
また、私めは「自動詞(四段)なのか、他動詞(下二段)なのかが
ハッキリしない選択ミス」という旨を指摘したのであり、
違和感や品格の話はしておりません。論点がズレております。
次に、貴句。拝読いたしました。
「沁み入る」は「沁む」との複合動詞であり、
「沁む」は心や体にじんわりと影響が広がる様子を表す動詞であり、
「沁」という字は、「水」と「心」を組み合わせて成り立っていますので、
水が静かに心にしみ込んでいく様な繊細な感覚を表しています。
この漢字を使う事で、単なる物理的な現象ではなく、感情や印象が内側に浸透する
ニュアンスの表現になるのですが、でしたら何故、「春の雨だなあ」と「や」で
切った後に包含の助詞「も」になっているのでしょうか?
春雨の音以外の何が作者の心に沁み入っているのでしょうか?
作者コメントにお書きの「雨の音も、川の音も、車の騒音さえ、全て清洲橋に
沁み入るような、音を忘れてしまう様な空間がありました」。
清洲橋自体に音が沁み入るのではありませんので、
文節の係り受けにやや無理があるのではないでしょうか。
その辺りが語順的にも曖昧なので、読者の迷路の1つに
なっているのではないでしょうか。
以上でございます。お目通しいただき、感謝いたします。
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隅田川にかかる橋の中では、清洲橋が一番好きです。今日は雨の中清洲橋を渡りましたが、春雨にけむって湿度の高い静かさがありました。都心なのに、なぜあの橋はいつも静かなのだろうかと、不思議です。主要幹線とちょっと角度がズレているからだろうか。
雨の音も、川の音も、車の騒音さえ、全て清洲橋に沁み入るような、音を忘れてしまう様な空間がありました。