「梨剥けば手に勾玉の光かな」の批評
回答者 イサク
こんばんは。三句とも拝見いたしました。
一句目。「発光の梨」という、とても面白い把握を持ってきました。
とはいえ梨自身が本当に発光しているとは思えず、この句の「発光」は比喩だと判断されるわけですが、光って見えることを「発光」と言ってしまうのは少し芸が足りない感がありました。
二句目。梨を「勾玉」にみなしたことで、「光」が意味を持ち始めました。
ただ「発光」という言葉が説明臭くなってしまったのが難点ですし、梨が光って見えることを「発光」と比喩することの違和感は変わらず。
三句目。比喩の一物句になりました。「勾玉」は比喩で、「勾玉の光」という「モノ」を「自分が手にしている」という感動。
この句意ならば「発光」をあきらめることで、とてもわかりやすくなったと思います(発光は発光で面白いのですが)
上五を淡々と「梨を剥く」として、「勾玉の光」というモノで押さえて着地する方法もあるかと思いました。
・梨を剥く手に勾玉の光かな
点数: 1
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また梨の句で恐縮です。梨を剥きつつ、白い実が見えてくるわくわくする感じが表現できているといいのですが・・・。