「八月や伯父の戦死を子ら知らず」の批評
こんにちは。
> 私はこの道場で、俳句
の読み手は自分だ、俳句は一人称だと教わりました。
> (略)
> 掃除機をかけているのが誰かは書かれていませんが、この句から一般的に想像すると、お母さん(奥さん)になるのではないでしょうか。
「掃除機」の句について、作中主体の位置は、そんなマンガのような家族の風景を見ている(思い返している)第三者視点の「私」のつもりでいます。父でも子でも掃除機を持った母でもなく(あるいは過去には、そんな父や子や母だった「私」)。
「俳句は一人称」(作中主体≒作者)というのも、多くの読み手がそのように読むというコードであり、例外はあるので(※)、主体が「私」でない読みもあって良いかも知れませんが。
※「俳句は一人称」の例外と言えそうな有名俳人の句としては、
毎年よ彼岸の入に寒いのは/正岡子規 (子規の母の発言)
安々と海鼠のごとき子を生めり/夏目漱石 (子を産んだのは漱石の妻)
御句について(俳句の中の「人」に関する話をしたので、直近の句でなくこちらに)。
「伯父」と対置するように「子ら」とありますが、「伯父」は続柄であっても、「子ら」は「ら」があるだけに続柄ではないように思いました。「子ら」というのは、言い換えるなら「自分の子・孫世代の、近しい人々」ではないかと。
抗いがたい情報伝達の劣化。経験者、語り部の高齢化、減少といった社会的メッセージの句と受け取りました。
添削
としては、「子ら」については「あらちゃん」さんの添削案(下五を「知らぬ子ら」にする)に賛成です。また、子らが知らない(子らに知ってほしい)ことは、「伯父の戦死」(という過去の一事)というより、「戦死の伯父」(が居たこと)ではなかったかと考えて、
八月や戦死の伯父を知らぬ子ら
よろしくお願いします。
添削のお礼として、長谷機械児さんの俳句の感想を書いてください >>
こんにちは。前句「秋の句をひねる背中に蝉時雨」には沢山のコメントおよびご提案句を有難うございました。皆さん熱心にご指導くださり、とても勉強になりました。お一人ずつお返ししていませんが、この場を借りて心よりお礼申し上げます。
本句は終戦記念日に寄せて。
事実なのですが、悩みどころは、
1️⃣内輪の親族のことなので、外部の方々に感慨が伝わるかどうか。
2️⃣「伯父」は作者の伯父さんとはわかっても、下五の「子ら」は誰の子だかわからないこと(皆さんは誰の子と思いますか?)
3️⃣「戦死」などの措辞が入ると、読み手があまりいい気持ちではないか?
ご意見よろしくお願いします。