「新米の香りを食ぶる今日の朝」の批評
今一つ満足いかないからもう一歩踏み込んでほしい、と言われたときが実はスタート地点なのですよね
これ、類句・類想と呼ばれるものです
似たような発想の作品が多くて埋もれるのが嫌だから、俳人は言葉を巧みに操って自分らしさを出していくのです
「皆と同じじゃつまらない」わけです
文語体、口語体の説明は合っているので私の説明は割愛します
私なりに、自分らしくする発想の操り方を2つほど...
ひとつは「動詞選び」です
「食べる」では、季語「新米」に対する感動が少ないです 味気ない感じがします
謙譲語「いただく」とすると、新米に対する敬意やら感動やらが少し見えてくるのです
もうひとつは「読み手の想像を広げる」ことです
「今日の朝」で時間情報を入れたのは素晴らしいのです
でも、ドラマがありません
読み手の想像も「今日の朝なんだ」で終わってしまいます
ここを「朝の声」なんてすると、読み手の想像が動き出します
家族団らんの朝、両親のいない朝、お姉ちゃんと僕だけの朝、昨晩の酒の残る朝、など読み手がきちんとこの句の世界を広げてくれるのです
これらを駆使すると、今までとは違う発想と表現が可能となり、類句・類想を避けやすくなれます
私の結論はこういうことです
新米の香をいただける朝の声
ま、私は基本的に読み手に豪速球を投げすぎて「想像力を試しています」という句が多すぎるのですがそれはまた別の問題です(
添削のお礼として、ハオニーさんの俳句の感想を書いてください >>
今朝新米を食べました。句になっているでしょうか?朝餉かなにしょうかなと思いましたが、今朝が新米の記念日で今日の朝としました。食べるは食べるは食ぶるで良いでしょうか?