「行きつけの飲み屋閉店梅雨入る」の批評
こんにちは。
いつも勉強させていただいています。
志らくさんの先日のプレバトの
「清貧の菓子屋青簾に忌中」
こういうテイストの方向でしょうか。
「清貧」と言ってしまうかはともかく、菓子屋・青簾・忌中と丁寧に映像を見せて、それでいて、だれが亡くなったのだろう、この長く続いたほそぼそとやってる商店街のはずれの菓子屋は閉店してしまうのだろうか、とその菓子屋のドラマや書いていない周囲の情景が立ち上がるということがいい俳句
ということなのかもしれない。
掲句は、「行きつけ」はよく行ってたという私の中での説明で飲み屋の映像ではない、「飲み屋閉店」これからあの店に飲みに行くことができなくなるなあ、世知辛い世の中だなあ飲食店は、梅雨で雨続きだなあ、この辺りが一読で浮かんできたことです、それ以上の周囲の光景を立ち上げるためにはどんな推敲やどんな言葉選びが必要かがさらなる課題です。私もいっしょで、つねにその課題と向き合い中です。
PS
やふりさん、このあいだ第4回おうちで俳句大賞に抽選出席されていて、堂々とコメントをしゃべってたので、この人はどんな人なのだろうと思ってたらスゴイ考察家でした。この考察見てると、句歴短い私にも思うところがいっぱいありましたしぐっとくるところもあるかなあと思い、いくじいさんのコメント欄におかせていただいて失礼しました。
これをふまえて言葉選びができたらスゴイだろうなあと。最終的にはこの言葉を選ぶというところに、その人のひととなりや半生や積み上げた言葉が乗るので、そこが難しいのですけどねえ。
・いい俳句 = 情景が大きく立ち上がる句、面積の大きい俳句だ
・「優しき人」なんて言っても始まらない。誰だって優しい時はある。優しさをどう示すかにその人の特徴が現れる。
・凡人ワードや類想ワードで、いい俳句が生まれないのは、季語
との距離が近く線分が短いからだ。跳躍も生まれにくく、情景が立ち上がらない。説明は、既存の言葉の言い換えでしかなく、どうしても距離が広がらない。
・季語の本意が活用された句を俳人が読むと、季語を取り巻く様々なイメージが想起され、もののあはれに満ちたいとおかしなヤバい情緒が押し寄せる。そして血がキレイになる。本意でないと、この季語スイッチが発動しない。なぜなら、過去の名句の多くは本意に基づいて詠まれているからだ。
・村上春樹もこう言っていた。
本当のリアリティっていうのは、リアリティを超えたものなんです。事実をリアルに書いただけでは、本当のリアリティにはならない。もう一段差し込みのあるリアリティにしなくちゃいけない。それがフィクションです。
いっぱいやふりさんの言葉を借りましたが、このあたりをいつも考えて句作・推敲、私も悪戦苦闘しています。
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馴染みの店から閉店すると聞かされたのと
梅雨入りしたというちょっと残念な感じを
取り合わせしました。
ご指導よろしくお願いします。