「ロゼの飛花鸚鵡貝かな舞い上がる」の批評
こんにちわ。
鸚鵡貝が、どうして出てきたかが、全く理解できなくてコメントできなかったのですが、ようやく理由がわかりました。
俳句
というのは、17音で伝える文学で、文字が限られているので、省略をたくさんするわけですが、それでも、読み手が省略を補える範囲での省略です。
例えばですが、日本語では、「助詞」(は、を、と etc..)を使うことで、そのあとにくる動詞が自然に想像されるときは省略しても意味が通じます。逆に「助詞」を省略しても、動詞によって自然に名詞が主語なのか目的語なのか、方向なのかを補うことが可能です。
ただ、飛花(の様子が)鸚鵡貝(ような形をしている。それは自然界の黄金比の象徴である)、ここまでの(・・)の省略では読み取れません。また「鸚鵡貝」で、古い生命の歴史を感じさせるという連想はありますが、その形状が黄金比の象徴でありそれを読み込んだ。までは、想定できません。
正しく伝えるには、
「鸚鵡貝の渦紋のごとく散る花よ」でしょうか。「散る花」も「飛花」に似た季語
です。この場合、「鸚鵡貝の」と6音になってますが、伝えたきことを伝えるためには字余りもしょうがないというところです。
ただ、俳句には「季語」という武器があります。季語に関していくと、古来から自然などに対して積みかなってきた共通のイメージがあります。それに加え、多くの俳人・詩人がその季語を読みこむことで新旧のイメージや連想の力が「季語」にはあります。それが俳句の約束です。
例えば「飛花」には、日本語の意味として「花びらが飛ぶこと」または「飛んでいる花びら」のことですが、俳句の世界ではこれは桜の花びらのことを言います。「桜」が飛ぶ姿には、「儚さ」「可憐さ」「淡きピンクの色」「古来から詠まれてきた歴史」などが共通認識として存在します。
「鸚鵡貝」などに例えなくても、その自然の儚さと繰り返される歴史のような感慨は「飛花」の一言にすべて込められています。かえって、「鸚鵡貝」を持ち出すことで、「古代から生き残ってきた生命の強さ」のような連想が入ってくると、桜の儚く散る様子と喧嘩してしまい、その情緒がなくなってしまうかも知れません。
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今日は、日本の文化に関心を持っている外国人です。
俳句の初心者なので、まだ未熟なところが多いと思います。
「ロゼ」とは、薄桜に似ている色のはずですが、通じるかどうかはわかりません。