「横顔のレリーフめける月の下」の批評
補足(主に、なおじいさん、幸福さん向け)
連体形の「めける」が月にかかるか、月の下にかかるかで読みが分かれるのですよねー。
普通は、(横顔がレリーフのようになっている月)の下ですが、特に俳句では、関係のない主語・述語を連体形で繋いでいく手法があるので、
(誰かの)横顔がレリーフのようになってしまっている→(月の下)である。
とも読めてしますのです。(ただ、横顔が誰のかわからないので、普通に読むと一つ目なんですが。)
毎回例に出すのですが、「さまざまな事思い出す桜かな」(思い出させるでなく思い出す。桜が思い出しているわけはないので、思い出しているのは作者)「遠山に日のあたりたる枯野かな」などで、かながついてないバージョン。
つまり「横顔のレリーフめける月下かな」と書いたのと同じ。こう書けば、月の横顔がレリーフのようだという読みはかなり減るでしょう。
で、どっちか悩みましたが、間違いなく後者だと思います。
一つは、(レリーフのような月の)下。って流石に言わないだろうと。散々描写しておいて、そんな月の下ってアピールされてもなんか、そういう月の下は違うのかなぁとあれこれ考えてもよくわからなかったのでもしやと思いました。
二つ目は、コメントです。「月光に」の方がいいのかなぁ。これで確信しました。月光にを上五に持ってくるということは、レリーフのような月ではなく、月光によってレリーフのようになったと言いたいのかと。
添削のお礼として、卓鐘さんの俳句の感想を書いてください >>
「月の下」、上五に「月光に」の方がいいかなあ。
「めける」もなあ。
まず「横顔がなあ」。
考えているうちによく分からなくなってしまいました。