「モルドバの子らが笑顔の炭団玉」の批評
回答者 秋沙美 洋
カイさん、こんにちは。
俳句に限らず創作物というのは、第三者に見られた時点で創作者の元を一旦離れていく。というのが僕の考えです。
読み手がどのような感想を抱こうが、それは読み手の自由であり、「これはこういう作品だから、こういう風に受け取って欲しい」というのは、作り手の傲慢に他なりません。
上記の事もあり僕は自分の句を自分で解説する「自句自解」という行為が好きではありません。
それを踏まえてお聞きください。
季語は枯葉のつもりで書きました。「虫」という一字だけでも秋季語として歳時記に載っている場合もあるのですが、あれは虫の声にフォーカスした季語です。
そして僕は度々造語を用いるのですが、枯葉路というのも僕の造語で、まあ読んで字の如く枯葉に覆われた道の事です。
枯葉に覆われた道を歩いていると、枯葉に擬態した虫がいる。それだけの句でありました。枯葉路という虫は、僕の知る限りでは存在しておりません。
さて御句読ませて頂きました。
全体的に散文っぽい雰囲気ですので、
「モルドバの子らの笑顔よ炭団玉」
にするかなー。
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添削のお礼として、秋沙美 洋さんの俳句の感想を書いてください >>
日本では、昔から炭を使う文化があり、そこから生まれた炭団玉は、日常生活で使いわれてましたが、今ではお香に用いたりするくらいしか見なくなりました。
ヨーロッパのモルドバでは、寒い時期に暖を取るのに、子供たちが枝や剪定した葡萄のツルを拾ったりしているのが現状です。
テレビで、日本の炭焼き職人が枝やツルから炭団玉を作りかつ作り方を教えて、子供達がより暖かい思いを経験できた様子を見て、
炭団玉は日本では古くからあるものですが見かける場面が少なくなりましたが、モルドバでは現役で活躍できているんだなと感じた事を句にしました。