「絆生む多生のごとく秋時雨」の批評
カイさん、こんにちは。
御句読ませて頂きました。
これは厳しいですよ。一読して意味がスッと入って来ず…。二度三度読んで、そしてコメントを読んで、何となく分かったような…?
これ、語順でかなり損をしていないでしょうか。コメントを読む限り、「多生のごとく」という言葉が掛かっているのは「秋時雨」ではなく「絆」ですよね??
ここが句を分かりづらくしている最大の原因だと思います。
「多生のごとく秋時雨」だと、秋時雨が何回も生まれ変わっているように見えてしまいませんか。
でも違いますよね。「この人とは前世でも友達だったみたいな感じがするなあ」と、親友との絆に対して多生の縁を感じている…そう作者コメントには書いてあります。
であれば、
「秋時雨多生のごとく絆生む」
語順はこうじゃないと、句意は伝わらないと思います。
とはいえこれだと散文になってしまいますので
「秋時雨多生のごとく生む絆」
ここまでやれば誤読は避けられるかと思いますが、どうでしょうか。
もっと言えば、親友との間に絆を感じたという事ですから、親友の姿も盛り込んでやらないと句の魅力は半減してしまいます。
個人的にこの句でイメージしたのは、竹馬の友であるおじいさん二人が将棋でも指しながら過ごしている秋時雨の時間…というものでした。
「老いらくの多生の友や秋時雨」
前世でも繋がっているような気がする唯一無二の友。お互いすっかり年はとってしまったけど、いつまでも仲良しでいる二人。そんな二人が過ごしている時間を、秋時雨が包んでいる。そんなイメージで。
ここまで書いてやれば、「絆」などと直接的な表現を用いる必要は無いかと。
もしくは、秋時雨の日に友と酒を飲んでいるという光景ならば
「秋時雨多生の友と交わす酒」
などのようにするのは如何でしょうか。
添削のお礼として、秋沙美 洋さんの俳句の感想を書いてください >>
以前秋時雨が降ってる時期に巡り合う男性がいて、最初は世間話をするだけの関係でしたが、男同士ということがあってか気が合い、やがて私はその方と今では、ご飯食べたり遊びに行ったりする位の仲の良い親友になりました。
今思えば、秋時雨が自分と彼の絆を生んでくれたんじゃないかな?と考え句にしました。
中七の「多生」は諺の「袖振り合うも多生の縁」の多生から持ってきました。
例え何度生まれ変わっても、生まれた信頼や絆は消えないという気持ちも込めて句に使いました。