「曙に来る太陽に走る自分」の批評
回答者 イサク
おはようございます。
◆また季語がありません。
俳句としては、「季語なし」はむしろ損をしていると思います。
季語がない俳句は「日記」とか「私の意見」とか「川柳っぽく面白いこと言った気になっている」というものになりがちですのでご注意ください。
無季俳句というものもありますが、「季語が入るようなスキがない」とか「季語を入れたらバランスが悪くなるほど詩が美しい」とか、そこまでいかないと成立しにくいです。
◆「曙に来る太陽」つまり「日の出に来る太陽」と言っています。
「来る」という説明。
当たり前を言って詩を出す方法もありますが、この句は「来るのは当たり前だろう」で終わっているかなあ・・・と思いました。
◆「走る自分」作り方にもよりますが、作者を主役にして俳句の詩を出すのは難しいと言います。
御句は「作者(一般人)が太陽に向かって走っているだけ」。これ、面白いと思いますか?
他人の日記を見て面白いと思うかどうか・・・
主人公として作者を見たときに読者が面白いと感じるかどうかですね。たとえば「滑稽俳句」「自虐俳句」などなら作者が主役になりやすいのでが。
俳句の基本は観察と描写で、季語や観察したものを主役にした方が、面白い句になりやすいと思います。
(アンネの日記や徒然草のように、記録・表現として興味深い日記はあると思いますが、俳句というジャンルでそれが成立するには、奥の細道のように、ひとつひとつの句が日記ではなく成立している必要があるように思います)
季語の力を借りて詩を足す形を考えます。
・夏暁の太陽に向け走りけり
いちおう自分の行動を入れたまま、自分を客観視して詠嘆「けり」しています。
ジョン万次郎様も、せっかく「俳句」をやるのでしたら、季語の力を借りてはどうでしょうか
点数: 3
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いっぱいランニングしたなあ