「家無しや燕の巣食む人の業」の批評
こんばんは。はじめまして。
初心者さんとお見受けします。よろしくお願いします。
◆ 食用の「燕の巣」はアナツバメの巣。日本にはいない鳥です。
日本に来る「燕」とは根本的に系統の違う鳥です。
日本に来る燕の作る巣は、主な材料は泥や枯れ草。おそらくどの地方でも食用にはしていません。
つまり、御句の「燕の巣」は、季語
とは無関係な食材を言っているのでは?となります。
アナツバメの巣も、基本的には子育てを終えたものを使うので、ホームレスにはならないようですが、ここは調べきれていないので自信がありません。もしかしたら密猟者がルールを守らずに採集している可能性はありますね。
◆初心者さんの作る俳句
にこういう句がしばしば登場します。珍しくはありません。個人の思想や、自分の信じる正義を語る俳句。
重い軽いというより、こういう思想は詩になりにくく、俳句特有の感動が出しにくい、ということをお伝えしておきます。俳句という方法を使ってこの内容を語る意味は、ご自身の中で整理できていますでしょうか?俳句でなくてもよいのでは?
言葉を選ばずに言えば「俳句という形を使って、カッコつけて斜にかまえてい言ってみたが、きちんと調べて実体験で描かないと中身が薄っぺらに見えてしまう」ことになります。
たとえば、私の知っている俳人には「戦争反対」という思想を持っている方が多いです。そういう句が絶対ダメというわけではありません。
ただ、俳句という一行詩として成立させるのはなかなか難しいはずです。
川柳や標語にはかなりの数があるようですが。
戦争が廊下の奥に立つてゐた/渡辺白泉 (無季俳句)
あやまちはくりかへします秋の暮/三橋敏雄
(川柳・標語ではない)俳句ならではの良さというのを少し考えていただければ幸甚です。
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【季語】燕の巣
燕の巣は本来「命・幸福・未来」の象徴。
人という種は、それすらも「自分の住処を侵す存在」として捉え、場合によっては「食の対象(=グルメという名の業)」にしてしまう。
その結果、巣を奪われた燕たちは「ホームレス」になる。
そして、そんな状況を当然として生きる「人」を描いてみました。
宗教味も感じるかも知れない重い句なので、好悪は分かれるかもしれません。感想、添削などお願いします