「春めくや平仮名っぽいくらくしょん」の批評
回答者 イサク
おはようございます。
「春めくや半音高きクラクション」からの詠み直しということですが、季語と句材が同じ別の内容の句、というぐらいになりました。
◆「クラクションが平仮名っぽい音に聞こえた」という把握には一定のオリジナリティと共感がありそうです。
◆「平仮名っぽいくらくしょん」の、特に「くらくしょん」という表記には正直、作為を感じすぎてしまいました。
「表記の工夫」は作者が考える必要がありますが、今回は作為を強く感じすぎてしまいました。
「平仮名」の漢字表記にも問題を感じます。ここを「ひらがな」にするのは、詠みにくかったのでしょうか?
・クラクションがひらがなっぽい春である
・春めくやふあああと鳴るクラクション
【作為】の問題。
だいたいどんな芸術でもお笑いでも、「ほらこうすると面白いでしょう?」「感動するでしょう?」という【狙い】が見え透くと、とたんに感動が薄れます。素人のお笑いや演劇がシラけるのパターンのひとつですね。
俳句は十七音しかないせいか、【作為】を強く感じてしまう部分があったときに、他の部分でなかなか取り戻せません。
また、俳句には「淡々と」「主張しない」などという教えもありますし実際にそういう佳句は多いですし、作為が強いものは季語が弱くなって「川柳」側に振れてしまったり、逆に「季語の説明」になってしまうことが多いです。
どんなジャンルでも、作者が存在する以上【作為】は必ずあります。思ってても作為を感じさせない技術か、作為が見えた上でなお感動させる技術が、欲しくなってきますね。
チャレンジは大好物ですし、独自性のありそうなチャレンジならコメントします。どしどしどうぞ。
点数: 1
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クラクションの句、皆様のアドバイスを参考に読み直しました。
よろしくお願いいたします。