「嵐過ぎ僅かに残る檜扇や」の批評
回答者 卓鐘
こんにちわ
コメントありがとうございます。「説明なっている」確かに難しいですね。僕もわからない部分もたくさんあります。説明と言えばどれも説明ですからね。ある程度感覚的な部分もあります。
でも、せっかくなので、感覚だけに頼らずできるだけ言語化して説明してみますね。
まず、俳句は短い韻文形式の詩です。なので、普通の文章(散文)のような文章になると、詩というより、説明文を見たような気持ちになります。
一つ根に離れ浮く葉や春の水 虚子
という名句があります。
例えばこれを、
春池に浮く葉をみれば根が同じ
と説明したらどうでしょうか。
元の句と比べてなんとなくだらーっとしたことが感じられますでしょうか?
春の池で、浮いている葉っぱをみかけたら、根っこが一緒だった。と自分の発見を順番に説明しちゃってるので、一気に鮮度が失われたように感じられると思います。
元の句は、一つ根に離れて浮いている葉という一枚の絵のような描写となってます。そこに、キラキラとしたあたたかい春の水が流れてくる。
することで春の全体的な光景がそれぞれの読者の中に残る。
このように、詩の鮮度が説明や読み手の解釈を説明することで落ちてしまうことが結構あります。
御句の場合、「僅かに残る」の部分が、「昨日あれほどすごい嵐だったのに、それでも僅かに残っている」と中七が作者が感じたことを、一つずつ説明しているんですよね。そこにゆるさを感じます。(読者が感じたい感慨をネタバレされた感じ)
嵐あとです。檜扇が綺麗に咲いてます。
これだけで、十分、嵐後で荒れてそうなこと、それでも咲いている檜扇の花。というのは読者はちゃんと感じとります。だって作者もその光景をみただけで、感じたのですから。
説明か描写は実はとっても曖昧です。説明といえば説明だし、描写といえば描写だしみたいなこともたくさんあります。それでもなるだけ自分の解釈や理屈をけずって事実だけを提示する方が詩としてのネタバレを防げます。ここでは、「嵐が来たのに」という意図をみせてる部分の中七です。
注意は、事実を描写するといっても、作者の詩としての真実でよいです。虚子の例でいくと、春の池ではなく春の水とした部分。事実としては池なのでしょうが、葉ら浮く葉、一つ根は、春の水がかがやかせているというのがささやかな詩的事実です。この表現で春という季節が一気に広がります。
僭越ながら、僕の「トマトに嘘がばれてる」これも詩としての僕にとっての真実の描写です。理屈はありません。なんかトマトは僕のかかかえる嘘を見透かしているようだ。というのを虚の真実を断定しただけ。その感覚がわかればよし、わからなければ切り捨てて良しです。でも一応読者は、あー読み手にとってはそうなのねと思えば十分。
長々と偉そうにすみません。僕の言っている事がただしいかと問われると自信はありません。ただ、自分がもがいて学んだ事として、これから俳句をやろうとしている方には伝えたいというだけです。これを聞いて里衣さんがどう捉えるか、いや違うと思う。そうは思わない。と考えるのもありです。僕も一年後には違うこといっているかもしれません。
なにかしら参考になれば幸いです。
点数: 3
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台風一過、昨夜は一時的ですが
凄い風雨で
庭はボロボロになってしまいました。
それでも直撃の割には
被害も少なくてほっと一安心。
今朝は台風一過でほんの少しだけ
涼しいようでーす。
しかし、気温はそう変わらず
まだまだ残暑は続くようですね~
(*_*;