「星涼し無限の神を思う時」の批評
回答者 ちゃあき
友也さん、こんにちは。ちゃあきと申しますよろしくお願いします。
御句、「無限」という概念は唯一、創造主のみが認識しうるものだと思います。人間には無限を認識することはできません。神を認識することができないように。ただ信じて想像するだけです。
僕はクリスチャンではありませんが、宇宙も霊天上界も魂もすべて神が創られたものであると信じています。そしてイエスキリストが信じていた神こそ真実の神であることも。ですから御句を拝読し共感を覚えましたのでコメントさせていただきました。しかしながら俳句表現において概念的なことを詠むのは一般的には注意が必要です。ストレートに表現するのではなく、無限の神を思っていることを読み手側に想像させるように具体的なこの世の事物を使って詠むのだと教わっています。
「荒海や佐渡に横たふ天の川」はそうした芭蕉の神秘的感慨を詠んだものだと思いますが、ここには概念的な表現はありません。
つまり神が創造された世界の目に見える物を使って目に見えない真実や真理を象徴的に表現することではないかと思っています。
「古池や蛙飛びこむ水の音」も芭蕉が認識した真理を象徴的に表したものじゃないかと僕は思っているのですが、真相は分りません。(笑)
長くなってすみません。生意気なことを言ったかもしれませんがお許しください。友也さんの俳句は僕個人としては大いに共感できるのですが、伝統文芸としての俳句はそういうものではないらしいです。「ではお前はそういう俳句を詠めるのか?」と問われたら「まったく詠めません」と答えるしかないのですが。(^^ゞ
参考になりましたなら幸いです。
点数: 3
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暑い日の夜に空を見上げると、星空が見えて、それを創造された神様のことに思いを馳せる時を持ったことを詠んだ句です。綺麗な句だと思うのですが、平凡すぎるかなとも思います。