「朝顔と和歌に読まれし桔梗かな」の批評
『秋刀魚』の句のコメントありがとうございます!
アドバイスですかー。
詩歌を書く場合に一番大事なのはちゃんと伝えたいこと・読者に思ってもらいたいことがあるかどうかが重要だと個人的に思います。
なので、たんせきさんの感情・感覚を大事にして、言葉にする努力をするという感じになるかと思います。
「全然共感できないよ!」は「お前変わってるな(笑)」になるし、なんでもいいので自分の感情・感覚を言葉にするということをやっていくべきだと思います。
いいものである必要はないけど、伝えたいもの・思ってほしいことがないものがないなら人に見せるなと思います。
これが基本で、俳句
特有のアドバイスでいうと、ざっくりいうと伝えたいことは一つにすべきです。
17音しかないので^^;
沢山俳句を読んでますが、「こんな風にこう感じた」風景を切り取るのが基本です。
「発想と技術は車の両輪だ」となっちゃん先生はよくいいますし、そのとおりだとは思いますが、私は発想>技術だと思います。
発想がなければ、技術は使いようがないですからね。
これは愚痴になりますが、技術に溺れている人の言葉は、作品を味わうつもりがない言葉しか伝わってこないので私は嫌いです。
本句ですが、「昔朝顔と詠まれた桔梗が咲いている」とだけなので、読む側はたんせきさんが思ったように「へぇー」と思うしかないですね^^;
知識を仕入れるということは素晴らしいと思いますが、俳句は読んだ人に何かを思わせたり感じさせてほしいです!
技術的なことをいうと、『読まれ』を「詠まれ」に変えると、『和歌』という言葉は不要になるかと思います。
「詠む」は詩歌にしか使われないからです。
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歳時記を読んでいて、『そうなんだぁ』
『朝顔は夏、桔梗は秋の季語なのに不思議だなぁ』という率直な気持ちを詠んだだけの句です。ありでしょうか?季語が二つにカウントされますか?