「天目の内に旅する天の川」の批評
回答者 負乗
長谷機械児さん、こんにちは🙂
茶碗の中からファンタジーが拡がって、好きな句ですね。
コメントに、
「見て回っているのは私自身ながら、天の川の切れっ端が茶碗の内側に留まって何百年かの旅を続けているようにも読めたりする…」
そう読めますね。
同時に「天目の内に旅する」のは作者自身で、その没入感も出て、良いなと思いました。
点数: 1
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作者 長谷機械児 投稿日
回答者 負乗
長谷機械児さん、こんにちは🙂
茶碗の中からファンタジーが拡がって、好きな句ですね。
コメントに、
「見て回っているのは私自身ながら、天の川の切れっ端が茶碗の内側に留まって何百年かの旅を続けているようにも読めたりする…」
そう読めますね。
同時に「天目の内に旅する」のは作者自身で、その没入感も出て、良いなと思いました。
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回答者 卓鐘
「かな」を使ったやつはわかりやすいですね。
さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉
ほんたうは白地を着たき浴衣かな 林翔
など。これは、主体を曖昧にするというか、取り合わせに近い形なんだけれど、キレのない形でなだらかにしてかなを生かすための連体形。取り合わせ(ぽい)一型として捉えてます。
ただ、意味の繋がりがしっくりこないと失敗しやすいので要注意と思っています。
この句も、取り合わせとしてみないと、天の川が曜変天目の比喩っぽく捉えられると残念な感じになりますね。「内に旅する」が詩的といえばそうかもしれませんが、僕には少々難しかった。
点数: 0
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回答者 イサク
こんばんは。
御句、このままでは「天目茶碗の内に天の川を見た」となってしまいませんか?
とすると「天の川」が季語として成立しないような。
「かな」構文にするとなぜか落ち着きますね。ちょっと理由が説明できません・・・
中七連体形という前提ありきなので難しいですが、コメントの句意からは切る方がいいかなあ・・・と思います。それでも「天目」と星空の近さは気になりますね。
・天目の内旅すなり天の川
・天目の内を旅すや天の川
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回答者 げばげば
こんにちは。
いつも勉強させていただいています。
御句、チャレンジの句といくことですが、初読は「天の川が曜変天目の比喩っぽく捉えられる」という卓鐘さんのいうパターンになってしまい、季語を比喩的に読むことになってしまった。という誤読は起きてしまいましたね。私の鑑賞の甘さですけど、、。
なかなかこの連体形チャレンジなかなか奥深そうですね。
「かな」で先日卓鐘さんがチャレンジされていましたが、見事に成功されていたように思いました(*'▽')
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優れた添削・批評は日本俳句研究会の記事として、転載、引用させていただく場合がございます。ご了承ください。
先日、夏休みの唯一の外出として都心に出向き(朝ラッシュ時間帯後に家を出て、夕方ラッシュの始まる前に家に戻ってくる、かつ、外食の昼飯は抜きという強行軍)、丸の内で公開されている曜変天目茶碗(静嘉堂文庫美術館蔵)を見てきました。平日の客の少ない美術館で、星空のような見込みに、暫し見入っていました。・・・しかし、この派手な景色は、俳句向きではないもの、「星月夜」などと置いてみても凡庸な比喩にしかならないものと思っていましたが。
げばげばさんの「配達のカブ」句に対する提案としてあった中七連体形の句形。入門書でも見かけたものの未だ手を出せていないこの句形の挑戦に、曜変天目を使ってみました。
本来の主体は省略された「私」自身だが、下五に措いた季語(名詞)が行っているようにも見える形とか。
天目茶碗の見込みの景色を彼方此方から見て回っているのは私自身ながら、天の川の切れっ端が茶碗の内側に留まって何百年かの旅を続けているようにも読めたりする・・・でしょうか? 自分で詠んでいながら、いまいちこの句形が把握できていない感じが続いているのでした。
※では、また来週末にでも(新たなしりとりは、どんなことになってるでしょうか)。