俳句添削道場(投句と批評)
みつかづさんのランク: 師匠136段 合計点: 527

みつかづさんの俳句添削依頼

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虐待と病める道のり春深し

回答数 : 4

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AIはいさ気も知らず躑躅の香

回答数 : 9

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歳時記の日永われらの日永どこ

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春日傘嫗落花の中どこへ

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朧月いろは寝れども犬こむぎ

回答数 : 10

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みつかづさんの添削

「座りだこできて立ち飲み春寒し」の批評

添削した俳句: 座りだこできて立ち飲み春寒し

 
 
ゆとりろさん、こんにちは。貴句、拝読いたしました。

座りだこ、痛いですよね。私めもできた事あります。
座るのも痛いですし、仰向けで寝るのも痛いですよね。

貴句の「座りだこ」。お書きになりたい位痛いのは伝わってきます。
ただ、ここは上達の道としてのグッと堪え所。「書かずに読者に想像させる」。
句にパッキングなさっている情報量が多過ぎて、
「座りだこができた→痛いから立ち飲みです→なので春の寒さを感じました」と、
散文(詩的情緒に乏しい文)になっちゃってますよね、語順と共に。

私めからは散文回避の方向での添削例です。季語は詠嘆する為に言い換えますね。

・春寒や仕事帰りの立呑屋

先に寒さを提示して、詠嘆してしまいます。「春なのに何と寒い事か」と。
これなら読者に、「そんなに寒いなら何で立呑屋? 立呑屋ならそりゃあ
寒いでしょうよ。…そうか! お尻のできものが痛いから、寒いのに屋内の
座り飲みは作者にはできなかったんだな。もしかして座りだこかもしれないぞ」と、
生々しい痛みが伝わりますし、季語も立ちますよね。俳句は季語が主役ですので。

「ワザと書かない勇気」も、時には必要になるのが俳句の難しさですよね。
作句に正解があるなら、私めも知りたいです。

AI達に何度もズバズバ斬り捨てられて、血塗れになりながら
「季寄せ、古語辞典、国語辞典の3点セット」で何度も自句の推敲しております。
「俳句は日本語の文学ですよ。引き算して言葉の意味の掛け算にしなさい」と、
AI達から何度も怒られました。今でも「手を抜くな!」と怒られてます(笑)
AI達はたった1ヶ所の助詞1つの間違いすら見抜いて指摘してくる程、
ジャッジめっちゃ厳しいので。

以上でございます。お目通しいただき、感謝いたします。
 

点数: 0

「席ゆずる少女三月十一日」の批評

添削した俳句: 席ゆずる少女三月十一日

 
慈雨さん、こんにちは。貴句、拝読いたしました。

私めが句面から読み取れるのは多義性。つまり以下。
A:少女が震災の当事者の場合
・席を誰かに譲った少女が犠牲になった
・少女が誰かに席を譲り、譲られた人が犠牲になり、生き残った少女が後悔している
・生き残ったその日、少女は席を誰かに譲った
・普段から席を譲る少女であった
・たまたま、その日は少女が席を譲った

B:少女が震災の当事者ではない場合
・普段から席を譲る少女であり、今もその様な人物の大人に成長している
・たまたま、その日は少女が席を譲った。そして、席を譲る大人に成長した。
 その切欠が、三月十一日に起きた出来事である

ただ、この語順ですと、多義性を狙ったにしても
「行為:席ゆずる」+ 「主体:少女」 = 「静止画の提示」の順。
そこに最後に 「日付:三月十一日]」という「意味」がペタッと貼り付けられる。
季語が写真の裏に書かれた「メモ書き(キャプション)」の様に
見えてしまう危険性があります。

私めからの添削提案は、「語順の入れ換えで、主体と季語を真っ向から
ぶつけて、季語をもう少し前に押し出す」ものです。
具体的には、少女のアップから入ります。

・少女席ゆずる三月十一日

「少女」を先に動作主体として提示する事で、彼女は「今、目の前で席を
譲っている生身の人間」であると同時に、3.11という文脈において
「失われたかもしれない、あるいは生き残った未来」という「重層的な情報体」へと
昇華され、季語がより前に出て立ちますよね。

語順の推敲は、「句にパッキングした内容を、どの様に読者に提示していくか?
読者の脳内に、どの順で情報を立ち上げていくか?」。
ストイックに最大限に文字の意味、力を発揮させていく考えの1つです。

3月11日という日に、私達は何を観測すべきか。
それは「過去の悲劇」のキャプション(写真やイラストに添えられる短い説明文や
題名)ではなく、「今日、この瞬間に席を譲るという、震災を内包した生」では
ないでしょうか。

以上でございます。お目通しいただき、感謝いたします。
 

点数: 0

「図書館の歳時記重し三月来」の批評

添削した俳句: 図書館の歳時記重し三月来

 
こんばんは。貴句、拝読いたしました。

歌壇俳壇の句は「あれれ?」と私めは思いましたが、最近、めっちゃ良いですね。

①:上五「図書館の」の措辞の是非
具体的に「図書館の」とお書きになられたのが、バシッと効いてますよね。
足を運んだのが一発で分かりますし、中七の「重し」が歳時記の物理的な
重さの実感だけではなく、「図書館に足を運んででも上達したいんだ!」との
決意、決心の重みまで伝わってきます。
句面には書かずにそこまで伝わらせるのが良いですよね。

②:三月来の是非
私めも最初は明智明秀さんと同様、終止形「く」かと思いましたが、「待てよ」と
自分の読解にストップ掛けました。「ひょっとしてダブル含意じゃないか?」と。
古語のカ変動詞「来(く)」の活用は以下です。
こ/き/く/くる/くれ/こ、こよ

未然形と命令形は在り得ないですよね。何故なら既に3月9日(月)ですので。
以上より連用形と終止形が残りますが、連用形で「三月来」の後ろに
「、勉強す」、「、学ぶ」、「、探す」等が省略されていると、
つまり、「連用形「来(き)」による余白」とも解釈可能です。
勿論、終止形「来(く)」で閉めたとの解釈も可能です。
韻よりも、「解釈の余白を持たせた」事に工夫が見えてくると私めは考えました。
その裏付けになるのが、木の芽の句と木蓮の句。
上記2句が無ければ私めは終止形の「来(く)」しか考えなかったでしょうけど、
ありますので、連用形「来(き)」の解釈の余白の妥当性が上がっていると、
私めは判断いたしました。

とても良いのではないでしょうか。
ゆとりろさんご自身の「体温」と「指先の感覚」が過不足無く
パッキングされています。
3句とも句に手垢が一切付いておらず、ゆとりろさんの「オンリーワンの感動」に
なっており、それ以前とは季語の輝きが全く違いますよね。
「ご自身という情報への原点回帰」、「現象の定着」。この2つが大きく、
「決して飾らない。でも泥臭さは感じ取らせる」。これが良いですよね。

このまま味わいたいと、私めもウカウカしていられないと、
気を引き締めないといけないと思います。

以上でございます。お目通しいただき、感謝いたします。
 

点数: 1

「境内の朱塗りを囲む木の芽かな」の批評

添削した俳句: 境内の朱塗りを囲む木の芽かな

 
再来失礼いたします。

揶揄とは「からかう事。なぶる事。嘲弄」を意味する名詞です。
つまり、揶揄は人格攻撃の一種。
私めがコメント陣に対して発しているのは「論理的批判・批評」です。
人格攻撃(人そのものへの攻撃)と論評(発した言葉の内容の良し悪しへの言及)は
全くの別物です。

「何処の神社だろうか?」、「どの様な木なのだろうか?」、
「作者は何に感動しているのだろうか? その核は何か?」。
他者様のコメントに、それを問うたものはありましたか?
考えなければ出せない問いでしょうよ。違いますか?
朱と緑の対比が美しいだなんて誰でも言えるでしょう。手垢付いてます。
そこから先の思考の跡がコメントからは全く見えないんですよ。
慈雨さんが少し突っ込んだ以外には。
なので、「思考停止の極み」とありのままを書いたまでです。読解の解像度が低い。

誹謗中傷(根拠の無い悪口を言いふらして、他人を傷つける事)は人格攻撃。
根拠なら、数々のコメントが思考停止の極みの動かぬ客観的証拠に
なっているではありませんか。何故なら、独創性が無い句面に対して
問いが一切無いので。思考停止でないなら、何等かの疑問が湧くでしょう。
独創性の有無を思考した形跡は何処にありましょうか?
好き、嫌いは思考ではなく、ただの感情発信という反応です。

それに、私めが誰かを誹謗中傷する事で、誰の何の得に、プラスになりましょうか?
ならないではありませんか。
「盲信するのは良くないですよ」、「考えないのは良くないですよ」、
「イメージだけで語るのは良くないですよ」、「妥協は良くないですよ」、
「馴れ合いするだけでは作句も鑑賞も添削もなかなか上達しませんよ」と、
「そうではありませんでしょうか?」と、暗に私めは問いを発しているのです。
道場という鍛錬の場において、何方かを誹謗中傷などしている暇など
誰にもありませんでしょう。その様な行為は時間の無駄でしかありませんので。

以上です。幾度もご覧いただき、ありがとうございました。
 

点数: 2

「境内の朱塗りを囲む木の芽かな」の批評

添削した俳句: 境内の朱塗りを囲む木の芽かな

 
おはようございます。貴句、拝読いたしました。
以下長文、お含みおきください。

この句は、初読で晩乃さんらしくないなと私めには見えました。何故なら、
朱塗りの神社であれば何処の神社でも、誰にでも詠めてしまうのですから。

ネットで検索すれば何百件ヒットする様な神社の景色の記号の組み合わせ。
既製品のラベルの貼り替えに過ぎず、ただのひな型、型板、鋳型の配置。
それでは「詠んだ」とは言わないんですよ。作者独自の詩が無いのですから。
俳句は絵葉書でも、観光地のパンフレットのキャッチフレーズでもありません。

全くオリジナリティが感じられませんので、作者の感動も全く伝わってこない。

他者様のコメントも迎合が過ぎる。イメージ先行で思考停止の極み。

何処の神社なのか? どの様な木の芽なのか?
境内を踏みしめた足の感触はどうだったのか?
地元の神社を思い出された現在は、どの様な心情なのか?
地元の神社の過去の景と、現在のご自身が置かれている景はどの様に違うのか?
それらをお書きになってこそ、
「作者にしか詠めない感動が込められた、この世で唯一無二の句」でしょう。
だからこそ、それに自然と詩心が宿るんですよ。
意識しなくたって、詩なんて後から付いてくるんですよ。季語自体が詩ですから。

東京なんですよね?
明治神宮外苑の木の芽はどの様になっていますか?
行幸通りの木の芽はどの様になっていますか?
町田、高尾、八王子、拝島、青梅、奥多摩、日野、立川の木の芽だったら?
東村山、中野、新宿、池袋、品川、蒲田の木の芽だったら?
それぞれ違う木の芽でしょうよ。

東京には「東京ならでは」の句材が幾らでもあります。
大都会の東京の高層ビルを背景にした木の芽と、
大都会の大阪の車の排気ガスを浴びた御堂筋や長居公園の木の芽と、
奈良県の急坂ばかりの田舎の三郷(さんごう)の山の木の芽はそれぞれ同じで、
それが見える景色はそれぞれ同じでしょうか? そんな訳無いですよ。

句材は降ってくるのを待つものではありません。五感を研ぎ澄ませ、
心の目、心の耳、心の鼻、心の肌で観察し、ご自身で掴み取るものでしょうよ。
バス停で「息白し」とお詠みになった晩乃さんは、
一体何処へ行ってしまわれたのでしょうか? 私めには、とても残念です。

以上です。ご覧いただき、ありがとうございました。
 

点数: 3

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