「濡れ雪の跡や道路は光けり」の批評
こんばんは。
よく「俳句のルールを・・」みたいな言い方をしますが俳句で「絶対ダメ」ということはほとんどありません。季重なりも三段切れも五七五の逸脱も、その形を含めて句に魅力が出るのであればやっても構わないと思います。
切れ字を重ねる(二重切れ字)、というのもそのひとつだと私は解釈しています。
「抱え字」については私は懐疑的で、「抱え字」について扱っている文書のほとんどが「抱え字があるから切れ字がそれぞれ生きている、と誰かが言っていた」という記事ばかりで、抱え字の効果についてきちんと分析されている記事を見たことがありません。
そもそも「抱え字」について格助詞の「は」以外の説明が見当たらず、他には存在しないのか?ならばなぜわざわざ「抱え字」と言い換えているのか?という疑問があるのですが、解決していません。
言い方は悪いですが、中山瑛心様のコメントもそのような形のようです。
抱え字とは無関係に「二重切れ字が成功しているのはなぜか」を分析している方は何人かいます。それらの中にはそれなりに納得できるものもあります。
長くなりました。上記の理由で「抱え字があるからよい、悪い」は私には判断しかねます。別の観点でのコメントをいたします。
◆まず、下五の「けり」が生きていません。
わざわざ二重切れ字にするために「や」「けり」を置いているように見えますが、この句は「光りけり」と過去のニュアンスを持たせる句ではなく、「光りをり」など、現在光っている意味を持たせる句ではないかと。
◆中七の「や」の前、季語・季語を含む風景として少し怪しいです。
「濡れ雪の跡」とは何でしょう?「濡れ雪」で雪が濡れている=少し解けかかった雪を想像するのですが、「跡」で???となります。
「跡」ということは雪が解け切っているのでしょうか?ならば季語「雪」ではなく、別の季語になるわけですが・・たとえば「雪解水」?
◆中七「や」は切れていないように見えます。
句意は「雪の(融けた?)後の道路が光って見える」という句意に見えるので、「や」に詠嘆はありますが切れていないように見えます。
この句に関しては、敢えて三大切れ字のうちふたつで二重切れ字にする効果は薄いように感じました。句の焦点がぼやける、という二重切れ字最大の弱点が補えていないように思います。
提案句は三大切れ字の残りひとつ「かな」で。
・雪解けて濡るる道路の光かな