「なすの花きうりの花と咲きにけり」の批評
添削した俳句: なすの花きうりの花と咲きにけり
いやいや、それでは添削ではなく改作、いやそれどころか改悪です。
皆さん季重なりを気にしておられるようですが、それではこの句の魅力が分からない。
私が先に述べました通り、二つの季語は並列的に配置されているのであり、殺し合う事なく互いに補完し合っているのです。
それを片方だけ目立たせてしまったら絶妙のバランスが崩れ、それこそ季重なりに堕ちてしまう。
この句に於いて季重なり問題は些細なことであり、注目すべき点は他にあります。
それは句形、この句のフォームです。
赤い椿白い椿と落ちにけり
なすの花きうりの花と咲きにけり
題材(椿、畑の花)と景(落ちる、咲く)
は違いますがフォームは全く同じです。
まずは河東碧梧桐句の「と」にご注目下さい。「の」でも「が」でもなく「と」。この「と」によって、椿が落ちているという現象に連続性が生まれ、読者の脳内に赤、白、また赤、白、赤白赤白…落ち続ける「時間」の映像が現れます。
作者はその効果をまるまる活かし、二種類の野菜の花から広がる、夏の畑の「空間」を描いて見せたのです。私はこれをパクリなどではなく、碧梧桐句の強固な「形」を信じ切った、先行作品へのオマージュと読みました。
もう一つ注目すべき点は「なす」「きうり」のひらがな書きです。
二つの句を並べて見た時に、題材の存在感の違いは明白です。
碧梧桐句は椿の落ちてゆく景色を見せるわけですから、椿の一個一個をはっきり存在させなければならない。一方この句においては野菜畑全体を想像させたいので、野菜の花一つ一つをそれほど明確に印象づける必要はない、いやむしろ目立つとかえって邪魔、季重なりの印象も強くなってしまう、ゆえの必然性のあるひらがな書き。
ここに作者の、周到に考え抜いた作品への配慮を感じます。もし漢字だったら、句の印象はがらりと変わったでしょう。
以上の事から、この句に添削の必要はないと判断します。名句の強いバックボーンがあって、その上に繊細な工夫を施された作品になど、おいそれとさわれるものではありません。
ただ、一句としての完成度の高いこの作品といえども、例えば総合俳句誌などに投句した場合、何千句の中に埋もれた時には、繊細な技巧を見落とされて、にべもなく類想類句の判定を下されてしまう可能性がある。そうした観点からも、やはり問題にすべきは季重なりではなく、実に「そこ」なのです。
いなだはまち様、私は作品を評価するのであって、作品に「失望した」のです。久田様という「人」に関しては知りようもなく知らないのですから失望のしようもない。その事だけは申し上げたく、こうしてまた出て参りました。しかし、あの時には感情の昂ぶりが確かにありました。久田様には詩を書こうとする意志を感じていましたので「それがこういうのを書くのか!」という苛立ちはありました。それで荒い口調になってしまったのは認めます。「失望しました」には確かに感情がこもりました。
その点は久田様に対しても謝罪したいと思います。済みませんでした。
先にも申しました通り、私は俳句を「読む」のが好きな人間です。自分の中には創造の種は何も無い。他者の作った作品を前にしてしか想像力が働かないのです。
実作者への志向がまるで無いということは、本道場の主旨から逸脱します。
意識せずに無遠慮を働いてしまう私の性質と考え合わせても、やはり、退出が最善の途かと思われます。いなだ様のお声掛けにそむくかたちになり、心苦しいのですが、皆様の俳句の上達を祈念しつつ、これで失礼したいと思います。
ありがとうございました。
点数: 1