満月の夜、お前は俺を襲う
作者 エスビー 得点 : 1 投稿日時:
ちび共が待つ自宅への帰路を急ぐ途中。立ち止まったこうたは、ふと夜空を仰いだ。
秋の夜長によく似合う、大きくまん丸い月。今まで見てきた月の中でダントツのサイズを誇るであろうそれは、普段風情など欠片も意識しないこうたですら、思わず見惚れるほどだった。
「あんだけでかきゃ、家からでも見えるだろう。特に〈しほ〉と〈せい〉のやつ、星が好きだからなぁ……」
自分でも親馬鹿、ならぬ兄馬鹿だなと思うが、実際こうたの行動理由の半分以上は家族のため。特に父親の居ない、金持ちでもない家で弟妹に不自由させたくないという、兄の意地のようなものが、日々こうたに力を与えていた。
「……なんだ、あれ」
近道としていつも通る、人通りの少ない路地裏。その奥に、何やら人の気配……しかも、少々正気でない様子のが、一人。
ビルの隙間を縫うようにして行くこの道は、ただでさえ薄暗くてうす気味が悪い。
普段なら気にならない暗がりも、得体のしれないものが潜んでいるとなると、訳が違う。荒い息遣いと、それに合わせて揺れる影。
数秒迷った末、こうたが踵を返した途端、……それは動いた。
背を向けていたこうたは瞬時に身体の向きを変え、足を踏ん張って衝撃に備える。すると影は大きく跳躍し、頭上からこうたの身体を組伏せに掛かる。──しかし
「おらッ、捕まえた」
想像の三分の一以下の衝撃しかこなかったことを幸いに、こうたは落下してきた身体を受け止め、かつ身体を翻して、逆にその影を組伏せた。その間、わずか三秒足らずである。
微かな月明かりで見ると、それは同年代の青年のようだった。しかし仕事で鍛え上げられたこうたの身体に比べると、まるで大根とごぼう。オウムとスズメ並みの体格差がある。
彼からすれば巨漢と言っても過言ではない相手にマウントを取られているにもかかわらず、青年の闘志は冷める気配がなく、むしろ血走った眼で、背中越しにこうたの方をにらみつけてくるのだ。
「おい、しっかりしろ! ……クソッ、正気に戻らねぇか」
空いた方の手で眼下の頬を数回叩いてみるも、その瞳から狂気の気配が消えることはない。
「こうなったら……一か八か、だ」
こうたは組敷いていた身体を己の下から解放すると、腕は離さないまま、引き寄せて自分の胸に青年を抱いた。これは弟妹がグズったとき、こうたがよくやるあやし方だった。
しかし今抱いているのは、非力な幼児でもやんちゃなガキでもない。正気をなくした青年なのだ。
抵抗は覚悟しているつもりだったが、背中に回させた両腕が爪で引っ掻き回り、耳元で聞こえるうー、うーといった唸り声は、なかなかに恐怖感を煽ってくる。
「落ち着け……落ち着け……」
自己暗示とも、青年を宥めているとも判断のつかない言葉を繰り返しながら、逃さないように、そして痛みに耐えるようにしてきつく抱きしめる。
「痛っ……!」
突如として、こうたの首筋を熱く、鋭い痛みが襲った。
身長差で視界となっていたそこを覗き見ると、青年がこうたの首へと噛み付いて、血を啜っているではないか。
「はぁっ!? ……ちょ、待て、一旦離れ……」
息継ぎのためか、啜っていた口が束の間こうたから離れる。月明かりに照らされた赤い唇の間には……一瞬だがたしかに二本、鋭く尖る犬歯が、血に塗れて鈍く光っていた