「カップルが急増春のこの日より」の批評
回答者 みつかづ
ゆとりろさん、こんにちは。貴句、拝読いたしました。
きびしい事を長々書きますが、お含みおきください。
「俳句としてはどうでしょう」
結論:そもそも、全く俳句になっていないですね。
以下、その理由でございます。
①:「カップルが急増」が「根拠ゼロの作者の主観だけ」
俳句は短いからこそ、「読者が共有できる根拠」が句面に書かれている必要が
あります。この貴句はどうでしょう。
・どこで? ・どんな光景を見て?
・何をどの様に比較してなぜ「急増」と感じたのか?
これらが句面で一切示されていないんですよ。なので読者は、
「いや、作者の頭の中の印象だけを書かれても……」となってしまいます。
俳句は「観察から生まれる詩」ですので、観察の痕跡がゼロだと、
それは詩ではなくて「感想文」の断片になっちゃうんですよ。
②:「この日」が読者が参照できない「作者だけの時間」
「この日」は本来、叙情を生む語です。
しかし俳句では、読者が参照できない時間指定は機能しません。
・何の日? ・何が起きた日?
・春の中でも特別な日なのか? ・単に今日という日の事なのか?
これらが句面からは全く分からない為、読者には
「作者だけが知っている日付」を突然持ち出された様に見えるんですよね。
俳句は「読者と共有できる場と時間が必要」なのに、この貴句はその提示が無い。
③:句景も象徴もゼロであり、読者の入口が無い
俳句は17音の中に、以下の3つのうちのどれかが必要です。
・具体的な景 ・そこから立ち上がる象徴 ・季語による世界の定位
ところがこの貴句は、
・具体景が無い ・象徴が無い ・季語が理由付けにしか使われていない
つまり、読者が句に入る事ができる入口が1ヶ所も無い。
ですので、読者が「作者はこの句で一体何を伝えたいのか全然分からない」という
感想になるのは当たり前になっちゃうんですよ。入れないんだから。
④:比喩にも象徴にもなっていない
「急増」、「この日より」。どちらも比喩として働く可能性はあるのに、
句の中で何も象徴していません。例えば、
・春の訪れ=恋の増殖(ただ、人間には繁殖季節という概念は通じない)
・ある出来事を境に世界が変わる
・自分の心の変化を「急増」で表す
こうした象徴性が書かれてあれば読み解けるのですが、
この貴句の句面にはその様なヒントが一切無いんですよ。
総評:俳句として成立する為の「核」(=作者の感動)が欠落している
・具体景が無い ・感動が無い
・象徴が無い ・共有可能な根拠が無い
なので読者は読み解きようが無い。これは作句技術以前の問題ですよ。
俳句としての最低限の構造が欠けています。
「俳句の体裁をしているが、俳句としての核が無い」
詩とは「自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムを持つ言語形式で
表現したもの」を意味する単語です。俳句は「季語を含む17音の短詩」です。
この貴句には、「作者が受けた感動、感興(=句の核)は句面の何処にどの様に
書いてあるのでしょうか? 分かりません……」と、読者は思っちゃう訳ですよ。
なので、この貴句は俳句とは言えない訳なのです。
ハッキリ申し上げます。
「この貴句は、改作なら誰でもできる。でも、添削は誰にも不可能。
何故なら俳句じゃないから」
そして、私めは他者様の所で他者様の句を改作するのは大嫌いなので、
書く事ができません。作句例を示すのも、この句材では、私めにはできません。
「俳句としてはどうでしょう」と質問なさる前に、「そもそも俳句とは何か?」を
ご理解なさる事が先ですかね。
以上でございます。お目通しいただき、感謝いたします。
点数: 1
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俳句としてはどうでしょう