「主無きこの心には滝壺を」の批評
こんにちは、御句拝見しました。
意欲的に作句されていて良いなぁと思いました。ただ、伝わるように書くというのは案外難しいもので、残念ながら意図された内容のようには見えません。
「主のいない心」は現状だと「仕える主君がいない」または「いるべき主人がいない」という意味にしかなりません。心の主人とは何なのか。それをどういう意味で読みとけばよいのか。
「心には滝壺を」とはどういう意味ことか? 俳句
に登場する名詞は、普通は具体的なもの、この場合は「実際の滝壺」を表すことになります。滝壺をどうするのか、そもそも滝壺は人がどうこうできるものなのか。
それらがどうやって愛して欲しい思春期の心に繋がるのか?
そもそも、それは本当に「愛して欲しい思春期の心」なのか?
ご自身の思いを「愛して欲しい思春期の心」というあるあるのフレーズで片付けるのはもったいないことで、自分が何を見て何を感じたのか、もう一歩内観を深めるとよいのかなと思いました。
もし、俳句にご興味があるなら、俳句の入門書を購入されると基本的なアドバイスが丸っと載っているのでお勧めです。駅前の本屋さんがもしあれば、ナンプレとかが置いてあるコーナーによく並んでいます。どの本でも大丈夫です。
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愛して欲しい思春期の心を描きたかったです。
お題の滝にも則っていれば良いのですが