「空蝉や幼子の手に余生舞う」の批評
回答者 イサク
おはようございます。はじめまして。
ここは俳句の説明をコメントできますが、俳句は句だけでまずは勝負、という意味でいくつか気になりました(初心者のうちは自句コメントしてもらった方がいいです。句の意図と句そのものが乖離していることがあるので)
慈雨様が先におっしゃっていますが
◆御句では「余生」が、子の余生のことだと思ってしまいます。
理由は、途中までは子のことをやさしく表現しているのに、句の中に【自分】が突然登場し、自己主張してくるからです。
とはいえこの内容ならば自分への切り替えは「わが余生」と二音足せば理解可能なので、上手にやれば調整可能かと思います。
他の点で、
◆さて、セミの抜け殻で遊んでいる表現に「舞う」は適切でしょうか?
木村様のせいではありませんが、「舞う」はちょっと雰囲気が良く感じる動詞のため、初心者さんはなんでも「舞う」と擬人化したがる傾向があります。ですが「舞う」という動詞は、雰囲気だけで結構曖昧な状況しか表現できないんですよね・・・
この「舞う」、別の表現にできないか検討してみてください。
◆「幼子」おさなご、で四音使っていますが、セミの抜け殻で遊んでいるような子なら「子」の一音でも想像できそうな気がします。
「幼」という説明の三音をわざわざ入れる必要があるかどうか?という点が気になります。
俳句は説明を嫌います。いわなくても読者が理解できることを説明されると、「わざわざ説明して~」みたいなことになり、俳句としての感動が減っていきます。かと言って「言わなければ伝わらないこと」も多く、この塩梅は難しいところなのですが。
上記より、たとえば推敲として、
「自分」を入れて「舞う」「幼」を省略した形をひとつずつ考えてみます。
・空蝉や幼子の手にわが余生 (慈雨様提案と同じ)
・空蝉や子の手に吾(われ)の余生舞う
ひとまず、上記のような形を思います。
さらに推敲して、
・空蝉に遊ぶ子の手やわが余生
・空蝉や子の掌(てのひら)にわが余生
さらに、俳句の中で「空蝉が自分の余生」という感想を中心に描くか、「子の遊ぶ空蝉」を中心に描くか、という推敲の方法も考えられます。とすると他を省略していき、読者の想像に任せる形になっていきます。これは中級以上かもですが。
・てのひらや空蝉はわが余生なり
・たからものとして空蝉そつと子は
点数: 1
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蝉の抜け殻で遊ぶ幼子の様子に、手の上で自分の余生が舞うように喜びを感じたのですが俳句は初心者です。添削お願いします。