「雪明り通夜の灯を弔へり」の批評
回答者 げばげば
再訪です!
ダメじゃないと思います!実景ならなおさらです。
たとえば、虫の声と工事音とかなら打ち消し合いますが、かすかなあかり同志ならふんわりと包む感じはあるのかもしれないなあと思い直しています!
話は変わりますが、組長の言う季語の六角成分図というのはご存知ですか?季語には本意があって、視覚聴覚嗅覚味覚触覚と連想力の六つの成分を持つという。
たとえば、雷は聴覚や連想力が強くて、視覚がうすく味覚はなし。稲妻は視覚と連想力が強くて、聴覚がうすくなり味覚はなし。みたいな。たとえば忌日の季語は五感がほぼゼロで連想力がマックス。みたいな。
そして句作するときに、その季語が視覚や聴覚の季語なら、残りの十二音で匂いや味の要素などを足して、句の中でのバランスを整えるといいと言う。
そんなことを意識して句作することもあります。この季語は聴覚の季語なので、取り合わせは匂いと視覚を合わせてみようかなあ、とか。なので、ついつい、音の季語に対して音に合わせるの?明かりの季語に対して灯りに合わせるの?と敏感になってしまうのかもしれません。じゃあ、雪中梅とか冬の梅とか、にほひのする季語はどう?とか。
このあたりは季語斡旋の話なので、実景は素直に実景として詠むのが一番だとも思います。
再訪した理由は、音に音を足すのも、あかりにあかりを足すのも、やってはダメなことはない、ということです!わたしの発言でやってはダメなのかー、となってしまってはいけないので、言葉は気をつけますね。
点数: 1
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想像です。こんな夜もあるかも。