「散華の蓮池御堂から十二礼」の批評
回答者 おせっかい
初めまして、今日から随時、添削に参加させていただきます。
これはあくまで、私の「俳句批評力」を磨くため、よろしくお願いします。
私が提示した「修正句」への批評は、みなさんご自由にどうぞ。
評価:凡人
発想:季語は夏「蓮」、あるいは「蓮池」。
「散華」(さんげ)も「十二礼」(じゅうにらい)も、いわゆる仏教用語。
「散華」は仏を供養するために花を散布すること、「十二礼」はお経の一つで歌うように唱えるもの。 作者のコメントを読んでさえ、この句からは、この句を創ろうとした作者の動機そして発想、即ち「句意」が伝わらない。
私はそもそも俳句に作者が「こういうつもりで作りました」とか「この句はこういう解釈をしてください」というようなコメントを添えること自体がナンセンスだと考えている。 俳句はもちろん作った作者のものだが、発表した途端に、すべてが読者のものとなる。 後は個々の読者一人一人が自分なりの解釈や受け止めを勝手にするのである。 作者がどうしても「こう受け取って欲しい」というなら、そう受け取られるように、俳句そのものを表現するしかない。
先ずは、字余りの所為もあって、「散華の、蓮池御堂から」なのか、「散華の蓮、池御堂から」なのか、「散華の蓮池、御堂から」なのかがはっきりしないので、景色や状況がぼんやりしている。 いずれにせよこの句は「散華」と「蓮池」と「御堂」と「十二礼」と、焦点が四つに分散していて、作者がこの中で一番何に心惹かれたのか、そこがボケてしまっている。 季語が必ずしもいつも主人公とは限らない。 ここでは「十二礼」だけが音として聞こえるものなので、おそらく作者はこれに焦点を当てたかったのだろうと、私は勝手に考えた。
技術:それなら真っ先に「十二礼」を出すべきだ。 後は全てが背景である。
背景の情報をてんこ盛りしようとすると、主人公の「十二礼」が薄められて、かえってぼんやりしてしまう。 俳句は無駄を切り捨てる究極の省略文学、背景は必要最小限に留めることだ。
修正:もっとシンプルに「十二礼流る蓮池御堂より」とか
点数: 1
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こんにちは。2度目の投稿になります。山田です。以前講評していただきありがとうございました。またご意見を賜りたく、投稿させていただきます!
まだまだ基礎も固まりきってない中、このように破調めいた句になり申し訳ありません!十二礼は、天台声明の一つで、この前法事でお聞きした時に、とても耳触りのよい歌のようなお経でした。その歌のような十二礼に、蓮池の蓮が散華して阿弥陀如来の来迎をお迎えする、そんなイメージが湧いて作った句です。なんとかその情景を詠んだみたい、と思い、作りました。
このような状況で、何が言いたいかも少しイメージしづらくなってしまって、心苦しいのですが、まだまだひよっ子ですので、皆様の厳しいご意見をいただきたく思います。どうぞよろしくお願いいたします。