「蜜柑落つニュートンの子の帰り道」の批評
紅輪さん、こんにちは。初めまして。御句の感想と提案句を置かせていただきます。
紅輪さんは、この道場へのご投句は初めてでも、作句のご経験はかなり長いものと拝察します。それはコメントの詳細さにも現れます。
ただ、ご存知のように、道場以外の場では、こうしたコメントは伝えることは出来ず、俳句そのものだけの勝負になります。
ですので、ここは、道場といえども、句だけで伝えたいことが伝わるか?というのがポイントになります。
さて御句。その意味で、この句で紅輪さんの伝えたいことがしっかり伝わるかというと、ちょっと難しいのではないかと思いました。
その理由。
まず、「蜜柑が落ちる」ということと、林檎が落ちることでニュートンが万有引力の法則を発見したと伝えられる逸話を結びつけるのは、そんなにすんなりいくものではないだろうということです。
そもそも、蜜柑が落ちたその場を、「子どもたちが何も気づかず通り過ぎてしまって」いますよね。その情景をお詠みになったとのことですが、そこにどれほどの感動があるでしょうか?これは要するに、なんでもない日常の風景ですよね?
例えば、蜜柑が落ちて「すごい!」と驚いていたとか、じっと見つめていたとか、振り返り振り返りしていたとかであれば、そこに味わいが生まれてくると思いますが、「気に留めるでもなく賑やかに通り過ぎてしまった」のですよね。
次に、「ニュートンの子」という措辞ですが、これもなかなか難しいと思います。一般に、偉人の名前を挙げてその「子」という場合は、その偉人を彷彿とさせる特別な才を持って生まれた子を指すのではないかと思います。しかしコメントでは、単に「学びの中にある」ということで「ニュートンの子」としている。ということは、日本中の子どもはみんなニュートンの子となると思いますがいかがでしょう、それでよろしいですか?
私はなにも、初投句の紅輪さんを問い詰めるつもりは毛頭ございません。それどころか、なにか底知れぬご才能を感じて、興味を持ってお聞きしています。私がものを知らなかったり、考え違いをしていることも往々にしてあります。是非ご返信いただければ有り難く、よろしくお願いします。
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初めて投句させていただきます。宜しくお願いします。
落ちた蜜柑の側を帰宅途中の小学生たちがそれを気に留めるでもなく賑やかに通り過ぎていく様を詠いました。
蜜柑を林檎に置き換えて思い出したのがニュートンです。子供たちを「ニュートンの子」と見立てたのは、彼らもニュートンらの偉人と変わりなく、学びの中にある身と捉えたからです。大袈裟ではありますが、実感です。「林檎」→「蜜柑」というスイッチに呼応するように「ニュートン」→「子」と相をずらしました。
「帰宅道」でなく「帰り道」とし、子供達がいる雰囲気を出しました。
「落つ」としたのは重力を表すためですが、初心者としては、落ちている蜜柑の様を表すのに「蜜柑おつ」としたのは文法的に正しいのか、無理がないか、効果的なのか気になります。
この句をより鮮やかにするとしたらどのようになるか、皆さんのご意見や、ご添削をお願いいたします。