「立つ秋やトイレきれいな無人駅」の批評
『西瓜』の句のコメントありがとうございます!
熊本の植木というところの西瓜が有名で、これはそこの文化なのかもしれません。
小学校低学年の頃、よく父の職場に連れられてまして、仕事手伝わされてました。
その中でも、この出来事が一番思い出に残ってます。
本当は大量にある中の一つと言いたかったのですが、沢山あることを表現するのは諦めて、まだ他にあることを表現するために『一個目』と詠みました。
が、諦めきれてなかったみたいだなと『第一声』という提案に気付かされました^^;
こっちの方が「声がでかいに違いない」と思えると思います!ありがとうございます!
私は感情語を入れるのは、苦手で避けて通ってました^^;
今度勉強して、感情語ありきでチャレンジしてみようかなと思いました!
本句ですが、なんか素敵ですよね。
無人駅のトイレがきれいであるってこと。
人がいないからきれいではないということが、田舎の公園のトイレに行けばわかりますもんね。
無人駅のきれいなトイレをみて、人の手が入っていること、人の存在を感じる。
素晴らしい感性だと思います。
一点どうしても気になるのが「秋立つ」ではなく、『立つ秋』なのかです。
『立つ秋』と表記を変えることにより、ぶっちゃけ「立秋」に無駄な擬人化を感じてしまいます。
素直に季語の表現を尊重すべきであると私は考えます。
あと、「こんなところにこんなものが!」みたいな発見系の句で、「みつけた!」感を出すとしたら、使える技術がありまして、紹介させてもらうと。
助詞「に」を使うと発見感がでます。
『トイレきれいな無人駅』よりも『無人駅「に」きれいなトイレ』の表記の方が発見感があります。
通常「に」は散文になりがちであると言われますが、その理由として「に」を使うとどうしても動詞を書く、もしくは動詞が省略されるためです。
この場合は「ある」「あった」という動詞が省略されるため、散文感があまりなく発見感だけ伝えることができます。
失敗例として、当たり前のことに「に」だけを使うと散文感だけが残ります(「顔に鼻」や「川に水」みたいなの)。
これは、表現なので作者が取捨選択すべきことなので、紹介だけです。
添削のお礼として、幸福来々さんの俳句の感想を書いてください >>
私は山歩きをしていたころに降りたった無人駅。まだ夏の暑い時。トイレは駅の外に。駅員さんがいないような駅のトイレだから汚くて臭かったりして…と思ったらとんでもない。
とても清潔で驚きました。快適でした。
しかしこれは凡人かな…。