「葉桜や刻を知らせる寺の鐘」の批評
罪の意識を感じているハオニーです
これだけは自力で掴み取らせずに、きちんと理解している人が教えるべきでした
それは、作者の意図を読み取ることです
俳句は17音しかない作品です
だから、1音1音に作者の意図が反映されているのです
それはベテランでも初級者でも同じことなのです
つまり、読み手から見て必要なさそうな言葉でも、作者にとっては自分の意思を反映させるのに必要な言葉だということがあるのです
そうしたわけでこの句を見てみましょう
余計な世話を焼きにきました
そうでもしないと、この句が持つ本来の力が埋もれてしまいますから
反抗期ドアに置いとくカーネーション
これ、「置いとく」は必要ないという人も確かにいます
しかし、ここに感情がきちんと込められているのです
反抗期だから素直に母親にカーネーションを渡せない...
でも渡せないのはイヤだ
だから置いたのだ
と、きちんと分かるのです
だから、作者さんにとっては必要だったのです
となると、この句の論点は「反抗期」では映像化が出来ていないから、別の言葉で映像化すればいいのではないか?ということにあります
私はその方針で可能性を追いました
ふくれっ面ドアに置いとくカーネーション
とすると、母親に素直になれない男の子が、複雑な感情でドアにカーネーションを置いておくことにしたと読めます
もしくは母親が膨れっ面で、「これで笑顔になってほしいな」とドアにカーネーションを置いていったという解釈もできます
これは意図とは違いますが...
甘えんぼドアに置いとくカーネーション
とすると、親にべったりだった子供がきちんと母の日に恩返しをしてくれた、覚えていたという微笑ましさが表現出来ます
ともかく、「反抗期」と言わずに反抗している様子を映像化するのが本質なのです
正確な文法や不要な言葉を見つけるのは表現の上では必要になりますが、それはあくまで作者さんの本来の意図を再現するための準備なのです
この心がないと、単なる技術自慢で終わってしまいます
私がこれを今まで一度も言っていなかったことが最大の失敗でした
なぜこの話をここでしたか...
それは今のかぬまっこ様に一番必要なことだと思ったからです
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おはようございます👋😃☀すっかり葉桜ですね。うちの近くのお寺の葉桜を見て詠みました。朝夕6時に寺の鐘が鳴ります。
季語が動きますかね。可もなく不可もない句かな…。