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タイトル:死にたがりは、この広い世界で何を願う。の批評の返信の返信 投稿者: 大野知人

 表現が難しいんですが、別に電車に轢かれなくても飛び下りや首吊りでも自殺はできる。不二が死んでから一年間、生きてきた理由は何? 不二が死んでから一年間生きてきたのに、今更死ぬ理由は何? ってことです。
 「死にたくない」、と言うには『俺には生きる価値のない人間だ』というのはおかしいですし、「死にたい」のならなぜ今まで一年間生きてきたのかが不明。熱を持って行動することのすべてが衝動的であるべきだとは言わないけど、「死ぬ」ことへの熱心さが俺には見えなかった。

 例えば、転生して直後の森で適当な蔦を使って首吊りをしたり、崖を探して飛び降り自殺しても良かった。そうしなかった理由は何?
 例えば、クロのところから逃げた後、「絶望的だ」とか言いながら生き延びず、適当なゴロツキに喧嘩を売るなり、或いはいっそ森かどこか、今度こそ「誰も助けに来ない」所に行けば死ねただろう。
 例えば、スラム街の少年を助けた時。手元に転がってきたナイフでそのまま自分の手首や、頸動脈を掻っ捌いて死んでも良かった。
 死ぬチャンスが一杯転がっているのに、自発的に死のうとしない。もう少し情熱をもって死にに行ってほしい。

 で、その上で。「惰性で生きるのなら、わざわざ死のうとするな」「死にたいのなら、もっと情熱的に死ね」というのが俺の意見です。つまるところ、「いくらでも死ねるのに、電車やクマなどの目に見える脅威が迫らないと死のうとしない」ように見えるので、「死にたいんじゃなくて、生きてるのが面倒なだけじゃないの?」と思うし、そもそも不二が死んでから一年間も社畜してた時点で(働くというのは生きるためにお金を稼ぐことです)「考えを放棄して、ただ習慣で働いている」という風に感じた。
 以上の二点から、「考えることも、自発的に死ぬこともしない」と推察しうる奴に「死にたい」などと言われるのは正直あまり好きじゃなかった。

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