人魚姫(五人の姉視点)
作者 粘膜王女三世 得点 : 5 投稿日時:
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人魚の六人姉妹の長女・アクァータは、しょっちゅう海中から突き出した岩石に腰かけているけれども、その華麗な姿を見た人間は一人もいない。何故ならそうしている時のアクァータは、決まって美しい歌を歌っているからだ。
長女アクァータは争いを好まない優しい性格をしていた。鮫と追いかけっこをするよりは歌を好んだ。その澄んだ声音は姉妹たちの間でも格別に優れていたが、しかし岩石に腰かけて歌うその性癖は、厳格な性格の次女アンドリーナにとっては、歓迎できるものではなかったようだ。
「姉さま」岩石の隣に腰かけたアンドリーナは眉を顰めた。「このままではまた人間の船が寄ってきてしまう。姉さまの歌声に魅了されるんだ」
「それがどうしたの?」アクァータはきょとんと首を傾げる。
「人間達は舵を誤り、船を転覆させるだろう」
「いいじゃない? 船の中身が海へと落ちれば、末妹のアラーナが喜ぶわ」
「それが問題なんだ」アンドリーナは眉を顰める。「あの子は自分の部屋に人間界の物を集めているだろう? あんな穢れた物を持ち込むだなんてどうかしている。増して、姉さまがそれを増長してどうするというのだ?」
「人間が穢れているなんていうのは迷信よ。誰もアラーナを本気で責めたりはしないわ」
「健康な行為とはいいがたい。私達は良くても、周囲からバカにされるかもしれない。現に、他所の人魚たちからは、私たちの妹のことを指して、あの城の末娘は気が触れているなどと噂されてしまっているじゃないか」
「だったらあたし達家族はバカにしないであげましょう」アクァータは笑った。「あの子が楽しんでいるものを、あたし達が取り上げたら可愛そうよ。心のない偏見から、あたし達があの子を守ってあげればいいわ」
などと言いながら再び歌い始める長女アクァータに、次女アンドリーナは肩を竦めさせる。
「姉さまは寛容過ぎる」
やがては、その美しい歌声に魅了された人間の船が、アクァータのところへやって来る。
突き出した岩石達に刺し貫かれ、穴の開いた船は、数百人の乗組員を乗せて転覆して行った。
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「お姉ちゃんがまたやった!」などと、ふやけて沈んで行った人間の死骸を両手に掴んで、三女アリスタが大声で叫んだ。「地上で歌を歌うだなんて、なんて迷惑な長女なんだ。お陰でお城の周りが沈没船だらけだっ! お城が台無しだ!」
六人姉妹は人魚の国の姫達であり、サンゴに覆われた大きくて立派なお城に住んでいた。サンゴだけでなく、色とりどりのヒトデやウミウシの張り付いたお城はとても綺麗で、遠くから見てもつい溜息を吐いてしまいそうなものだったのだけれど、沈没船の取り囲む今ではまるでホラー映画の一風景のようでもあった。
「アラーナの為なのだと言っていた」次女アンドリーナが腕を組む。「人間界のものを集めたいから、船が転覆すると嬉しいらしい。最近ではアラーナ自らが要求することがあるそうだ」
「ふざけている!」言いながらアリスタは人間の死骸にかぶり付いた。ふやけた死体から生ぬるい体液が溢れだしては、海水を赤く染めた。「確かに人間界のものが穢れているなんていうのは迷信さ! それでも愚か者たちは悪評を建てるんだっ。ボク達家族にもその悪評は影響するんだっ! まったく迷惑な話だ!」
「アラーナは十四歳。迷惑をかけて当然だが、だからこそちゃんと叱ってやらねばならない。なのに肝心の長姉があの調子では困り者だな」
「アンドリーナお姉ちゃんがぶちのめしてくれればいいじゃないか!」アリスタが人間の臓物を齧る。
「暴力で強引に従わせたところで、改心してもらわねば意味がない。そしてアラーナが一番いうことを聞くのはアクァータ姉さまなのだが、その姉さまはアラーナに甘い」
「まったくバカげている!」心臓を握りつぶし、あちこち齧り尽された死体をそこらに捨てながら、アリスタが吠える。「いいさ。こんな家そのうち出て行ってやる! ボクはお姉ちゃんたちのように行き遅れるつもりはないんだからねっ!」
「私も姉さまもまだ二十歳を超えたばかりだ。それよりアリスタ、おまえは何故人間を食べているのだ?」
「美容の効果があるのさっ!」アリスタはそう言って血まみれの頬を拭い、髪を撫でつける。「姉さんたちは二人とも海龍族の王子のところへ見合いに行って、断られて返ってきただろう。ボクはそうなるつもりはないってことさ」
「私は向こうに断られたが、しかしアクァータ姉さまは最初から見舞いに積極的ではなかった。妹たちには自分が必要だと言って、姉さま自ら断って来たのだ」
「いつまでも妹離れできないバカ姉ってだけだろう?」
「おまえは姉さまになんてことを言うのだ?」アンドリーナは眉を顰める。「昔はアティーナやアデーラに姉さまを取られると、泣きじゃくっていた癖に。あの人は立派に長女として振る舞っていると思う。おまえも姉さまに対する感謝を忘れてはならない」
「子供の頃の話だろう!」アリスタは顔を赤くしてそっぽを向く。「どっちにしろ、ボクはあんた達とは違うんだってことさ」
あれでは嫁の貰い手も少ないだろう。泳ぎ去っていくアリスタを見詰めて、アンドリーナは溜息を吐いた。
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長女のアクァータは優しく寛容な性格をしていたが、その分妹たちに厳しく接する能力は持たなかった。そうした役割は次女のアンドリーナが担っていて、嫌われ者になりながらも姉妹の秩序を守って来たのだと常にぼやいていた。
三女アリスタは活動的で泳ぎも早かったが、その分生意気で傲慢な性格をしてもいた。自分が姉妹の中で最も優秀だと信じて疑わなかったが、家族に対する思いやりは他の姉妹の何ら変わりなかった。
「なあアティーナ」アリスタは四女アティーナの部屋に上がり込んで声をかけた。「アラーナのことをどう思う?」
「……どう、というと?」アティーナはぼんやりとした表情を本から上げて一つ上の姉を見た。「彼女の強迫的ホーディング症について、自分の意見を来たのかい?」
「キョウハク……なんだって?」
「強迫的ホーディング症だ。アラーナがかかっている心の病の名前だ」
「それは誰から聞いたの?」
「本に描いてあったのさ。頭の良い人間が描いたものだよ」アティーナは額に手をやる。「移住空間において大量の物品を度を越して収集することを止められず、それにより著しい苦痛や不全を起こしているという行動パターンを言う……と、その本には書いてあった」
「相変わらず本の虫だね」
「アラーナは人間界の物を城に持ち込むことでアンドリーナ姉さんやアリスタ姉さんに文句を言われているし、城の周囲の人魚たちにも鼻つまみ者にされている。本人自身そのことで苦悩を感じてはいるが、それでもやめることができないでいる。それは立派な人格障害と言えるだろうね」
「そのとおりだ」アリスタはアティーナに詰め寄る。「早い内にアイツをどうにかした方がいいんじゃないのか? アイツ、もう少しで十五歳になるだろう? あのバカが地上へ行くことを許されたりしたら、何をやらかすか分かったものじゃない」
人魚の国の掟では、人魚は十五歳になるまで地上へ行ってはならない決まりになっている。
そのくらいの年にならないと、正常な判断ができないというのがその理由だ。『正常な判断』が何を指しているのかはアリスタには良く分からなかったが、それでもあの末妹が地上に行くにふさわしくないことは明らかに思えた。
「強迫的ホーディング症には服薬が必要だ」アティーナは言った。
「薬を飲ませるのか? 何を飲ませればいい?」アリスタは腕を組む。
「抗精神病薬、抗うつ薬、抗不安薬、各種の漢方薬……」
「それはどこで手に入る?」
「海中にはない」
「ならばアラーナの病気をどうやって治してやる?」
「分からない」
「あんたは本当にただの頭でっかちだ」アリスタは眉を顰める。「いいさ。ボクに任せれば良い。あんな奴ぶん殴って押さえつければいいだけさ。病気なんてものはその内治る。協力しろ」
「億劫だ」
「じゃあ本でも読んでろ」
「そうさせてもらう」
「ふんだ」
自分の部屋を出ていくアリスタを眺めた後、アティーナは本に目を落とした。
アラーナの陥っている精神状態について本で理解してやることが、アティーナなりの思いやりだったのである。
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姉たちはそれぞれに末妹、アラーナのことを想いやっていたが、もっとも問題の核心の近くにいたのは五番目の妹のアデーラだった。
既に十五歳になり地上に行くことを許されていたアデーラだったが、その権利を行使したことはなかった。地上に興味がない訳ではなく、ただ一人の妹アラーナが羨ましがると可愛そうだと考えた為である。アデーラはそうした幼い優しさを持っていた。
長女と次女はそれぞれのやり方で妹たちの面倒を見る役割を担い、その傘の下で三女と四女はそれぞれに自分らしさを獲得して行った。三女アリスタは行動的でたくましい娘に、四女アティーナは知性的で博識な娘に。しかし上に四人も姉がいたアデーラは、少々の抑鬱した気持ちを抱えて育った。
姉たちに嫌いな相手はいなかったにしても、アクァータとアンドリーナは対等な姉妹とうよりは庇護者であり、アリスタやアティーナは自分にはない才能を持って振る舞う為に、アデーラは憧れと同時に劣等感に近い感情も持っていた。それに押しつぶされずに済んだのは、アラーナの存在があったからだろう。
アデーラにとって、ただ一人お姉さんぶれる相手であるアラーナは格別な存在であった。誰よりもアラーナの味方であろうとして献身的に世話を焼くアデーラの姿を、姉たちは微笑ましさを持って見守っていた。アラーナも年の近いアデーラに親しみを覚え、よく懐いた。二人は親友だった。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」アラーナはアデーラに言った。「今日もアクァータお姉ちゃんにお願いして、船を一隻ひっくり返してもらったんだ。お陰でほら、素敵なものが手に入った」
アラーナの小さな手に乗っているのは、途中で三節に枝分かれした銀色の棒だった。武器というにはあまりにも小さすぎ、アデーラにはそれが何に使うものか良く分からなかった。
「これはいったい何なのでしょう?」アデーラは首を傾げる。「わたしには良く分かりません」
「アクァータお姉ちゃんが言うにはね、これは人間が食事をする時の器具なんだって。船に乗ってる人が、これで料理を突き刺すのを見たことがあるって言ってた」
「アクァータお姉さまはとても目が良いのですね」
「あたしも人間が食事をするところを見て見たいっ!」
「十五歳の誕生日まで待ちましょう。私も一緒に行ってあげますから」
「うん」
「でもアラーナ。その人間の物を集める癖は、十五歳になったら卒業しないといけませんよ」
「なんで? なんでお姉ちゃんはそんなことを言うの?」
「上のお姉さまたちに迷惑がかかっているからです。悪い噂を建てられているではないですか?」
「それは分かっている。お姉さまたちにも迷惑がかかっている。けれども、どうしても好きだからやめられないの」
「あなたは人間の世界にあこがれを抱いているのですね」
「うん」
「だったら、人間を実際に目にしてみて、それがたいしたものではないと分かれば、きっとやめられるはずですよ」アデーラはそう思っていた。
末妹であるアラーナは甘やかされてお転婆に育った。もうすぐ十五歳の誕生日を迎えるというのに、子供のように純粋な気持ちを持っていた。空想好きで、外の世界に憧れていて、そして外の世界について誰よりも無知だった。
末の妹という立場は姉達が思うのよりもよほど退屈なのだろう。何をするにも先駆者が上にいる。姉達が誰も手を付けていない人間の世界に対するあこがれをアラーナが抱いたことを、アデーラには少しだけ理解できるような気がした。幼いアデーラが、ただ一人の妹のアラーナを独占したがったように。
だがそれも彼女が十五歳になるまでだ。外の世界なんてどうせ大したものじゃない。アデーラは自分にいつも言い聞かせている。言い聞かせて来られたからこそ、妹に嫉妬させない為に地上へ行くのを我慢することができたのだ。
海の中だって悪いものじゃない。アデーラはアラーナという妹を心底から可愛らしく思っていたし、優しい姉達のことも尊敬している。魚やサンゴは綺麗で、泳ぐのは気持ちが良い。五番目の娘とは言え、自分はお姫様だ。大切な姉妹たちに囲まれて三百年の寿命を終えることに、何の不幸があるというのだろう?
いつかきっとアラーナもそのことに納得する日が来る。
アデーラはそう信じていた。