「比良八荒四高桜の動かざる」の批評
回答者 イサク
こんばんは。
私は選者ではないので推測しかできませんが・・・
まず、これはどちらも俳句であることが前提です。
「比良八荒四校桜を守り継ぐ」この句の季語「比良八荒」の後に、「が」は省略されていないと思います。つまり「比良八荒」で切れており、「四校桜を守り継ぐ」の主語にはなりません。これは俳句の基本形のひとつで、風は擬人化されておりません。
では「守り継ぐ」のは誰か? そこは受け手の想像に委ねられますが、句の詠み手や、地元の方、遺族の方、大学の後輩、などという想像は出来ます。そこは受け手に任せて、決めきらなくてもよいでしょう。
加良太知様の「比良八荒四高桜の動かざる」について、これはけして悪い句ではないと思います。客観の観察の句となっています。
ただし一点だけ、「いくら風は吹いていても、石碑は微動だにしない」という意味を持たせているのなら、それは季語「比良八荒」に対して「付きすぎ」なイメージを、受け手に持たせるかもしれません。
選に選ばれた方も当然「四高桜」のことは調べ投句した、と考えるのが自然です。とすると「今は比良八荒がこの人たちの魂を守っているということですか?」と思ってしまうような句ではないはずでしょう。
というのが、それぞれの句と、調べられる範囲での「四高桜」からの、私の推測です。
点数: 1
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注:発想は1941年(昭和16年)4月6日に比良八荒で発生した「琵琶湖遭難事故」からのである。「四高桜(しこうざくら)」とは、萩の浜に建てられたあの事故で亡くなった11人を記念する石碑のこと。
今週の一句一遊への落選句です。
ちょっと気になるのは、入選句の中に同じ素材の
「比良八荒四校桜を守り継ぐ」
があるということです。自分の句に一体何が足りないのかを探してみたいです。
この句の風の擬人化はハイライトだと思いますが、これはちょっと説明しすぎて余韻が欠けているのかなと、疑問を抱えています。
もう一つの大きな問題は、この事故は当時はまさに比良八荒のせいだったのに、この句によると、今は比良八荒がこの人たちの魂を守っているということですか?人を殺したものが逆にお守りになっているというのはどういうことですか??意味はでたらめではないですか?
そして私の句の「動かざる」は、いくら風は吹いていても、石碑は微動だにしないで、事故に対する人々の深い記憶と勇気を表しています。客観的な描写でしょう。
しかし、結局は納得できなくて落選しました。
さて、皆さんはどう思いますか?何かご提案がありますか?