「鍋をしてもひとり椅子で春を待つ」の批評
回答者 イサク
おはようございます。
◆この句、「鍋をしてもひとり」の説明臭さが気になりますね。
「鍋ってみんなでやるもので、一人ってかわいそうじゃない!?」という押し付けっぽい言葉になっていて、孤独感というより、孤独であることを主張しすぎているように感じました。
◆初読では状況が読み取りにくく、人が集まらなかったわけではなく最初から「一人鍋」を食べていると受け取れました。今どき、一人鍋用の道具もいろいろと売っているくらいですから・・。
人が集まらなくて孤独、というストーリーを背負わせるよりも、最初から「一人鍋」でもあまり句意は変わらないかと。
◆鍋料理という意味の「鍋」は、冬の季節感を持つので、「春を待つ」との季重なり的っぽくもなっています。いわゆる「主役の季語はどっち?」という状態です。
俳句とは多くを語らず・説明せずに季語に託すもの、という基本から言えば、御句は「鍋をしてもひとり」の部分で説明しすぎ・語りすぎているので、やはりここを変えた方がよいかと思いました。
・ひとり分の食器を出して春を待つ
点数: 2
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9-8の破調、となってしまいます。
普通に詠むのも苦労している初心者です。
「鍋をしてもひとり」というフレーズが使いたかったのでちょっと無理を感じましたが、とにかく出そうと投稿しました。
冬と言えば鍋(安直ですが)。
鍋は人と囲めば心も体も温まります。
鍋パーティーともなればそれはもう楽しい場面になるでしょう。
しかしこの句では「鍋パーティーをしよう!」と意気込んで友人を誘ったものの、当日は誰も来ずひとりで鍋を食べ、椅子で夜を明かした、という場面を詠んでみました。
折角の鍋会なのに人が来てくれずさみしい、この冬のような状況から、暖かい春を切実にのぞんでいると、そんな様子を思い浮かべられればと思います。
有名な自由律俳句のもじりともとれる前半で、より孤独感を感じることが出来るのではないかと期待しています。