「冬嶺や眼下を分かつ大河見ゆ」の批評
おはようございます。
経過は見ております。細かな推敲ばかりになってしまっていますね。
◆たぶんですが、
「自分が冬山を登って頂上までたどりついたんだ!」と主張したいという理由で季語を選択しているようですが、季語【冬嶺】が噛み合っていません。
感動しているのは季語【冬嶺】から離れて【自分が頂上から眺めた眼下の大河(と平野?)】です。
季語【冬嶺】の本意が生かされておりません。
かといって、季語が理屈で繋がっているので、「季語」と「関係ない十二音」の取り合わせの句とも言い切れず。
ヒッチ俳句様の「別の季節に同じ眼下を見る景色と何か違うのですか?」というコメントも、その印象から来ているのではないかと思います。個人的には、眼下の雪景色を想像したので「冬」の意味はありそうだとは思いますが、そもそも「山の季語」である点が生きていないと感じます。
◆伝わらない理由として、
「冬山に登った」「山から地上を眺めた」「地上が大河に分かたれていた」と、一句に入れたい情報が多すぎる、という点もあります。それぞれ少しずつ情報が入っている(「冬嶺」「眼下」「分かつ大河」)のですが情報が足りず、受け手に伝わり切りません。
少なくとも三~五句分ぐらいの句材はありそうです。
それぞれの感動ポイント「冬山を登った!」「山からの景色がきれい!」でそれぞれの句を作った方が良いと思います。
たとえば、ひとまず二句
・冬山は険しき山ぞ登頂す
・雪景色黒き大河の分かちをり
あと二~三句は作れそうです