「冬深し駄句をこしらえ泣けぬ日々」の批評
友也さん、こんばんは。
神様を信じておられるのに、ご自分を卑下なさることは、あなたの神性を汚すことになるのではないでしょうか。
短距離走で勝てなくても、長距離ランナーとして勝つことをお考えになってみるのも一つの手だと思います。
神が創られた世界ならば、悲しみと見えるものにも何らかの役割や意味があるはずだ。神が私のことを徹底的に害そうなどと思っておられるはずがない。と考えてみてください。悩みの渦中にあるときには、たいてい自己愛の虜になっています。「こんなにかわいそうな自分」ということを一生懸命に考え、他人の同情を得たいと思うのに、誰からも同情の声が出ない・・・ それで、しゃがみ込んで、太陽に背を向け、自分の小さな影ばかり見つめているのです。それでは、いつまでたっても光は見えてきません。「神への信仰」「神への愛」があるならば、すっくと立ち上がり、太陽に向かって大きく背伸びをすることです。小さな自分ばかり見つめないで、神のほうを振り返り、感謝の気持ちを抱くことです。「自分は、いかに大きな愛を与えられているか。今は不幸なように見えても、それはより大きな向上への糧となっているのではないか」と考えてみるのです。
すみません、生意気を言いましたが、嘗て僕が苦しかったときに救われたある方の言葉です。何らかの参考にして頂ければ幸いです。
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泣きたい、叫びたいくらい、ものすごく悲しいのですが、ある時から全く叫べなく、泣けなくなりました。今年ももうすぐ終わりますが、俳句を始めて自分の無力さ、至らなさ、才能の無さに絶望しています。それでも俳句を詠むことを諦められない自分がいます。いっそ、すっぱり見切りをつけて諦めた方が楽かもしれません。すみません。今は後ろ向きなことしか言えません。