「心のごと曇天は泣く十二月」の批評
私自身の学びが不充分なため、確信を持って申し上げることは出来ないのですが、「心のごと」は言わずとも読み取ってもらえると思います。或る風景を捉えて句にまとめたということは、そこに詠み手の心が反映されていると考えるのが自然だと思うからです。
また、「曇天は泣く」という擬人法も、(私が学んだ限りでは)俳句
にそぐわないもののようです。どうも俳句という詩形には、景をそのまま詠むような直截的な表現が相応しいらしいです。
泣きたいような心持を雨で表現するにはどんな言葉がいいのか、考えてみた結果、「降り籠められて」に思い至りました。行き場のない閉塞感が悲しみと繋がると思います。
季語
の「十二月」を動かさず、中七に「降り籠められて」を据えるとしたら、どんな上五が相応しいのか。まず、場所を考えてみました。降り籠められて、誰の助けも得られずに苦しむに相応しい場所は何処か。「ビル群に」などと浮かびましたが、あんまり景色が見えてきませんし、そもそも「都会の孤独」なんてイメージはありふれていますね。
一旦場所を諦めたところで、ちょっと観点を変えて、なぜ「十二月」なのか、私なりに考えてみました。なぜ「十二月」の雨に悲しみを見るのか。それは年の瀬にあって思うような成果を挙げられない自分自身への悲しみと読めるのではないかと思いました。もうじきに年が改まるが自身には変革があったのか、という思いですね。
そのように解釈した上で、上五は「急かされて」はどうかと思いました。師走の焦り、何かをなさねばと逸る気持ちとは裏腹に、降り籠められて身動きのとれないことの苦しさ悲しさを表現できるのではないかと思ったのです。中七と同様に、動詞+「られて」になっているのも形としては良いかな、と。
実は同じ形で気に入っている句があるんですね。
愛されて冷たくされてプチトマト 道子
http://www.haisi.com/saijiki/tomato3.htm
もしかしたらパクりの範疇かも知れませんね。
その事も含めまして、御笑納いただければ幸いです。