「玻璃ごしの母の涙に薄暑光」の批評
回答者 めいしゅうの妻
添削した俳句: 玻璃ごしの母の涙に薄暑光
おかえさんへ
おはようございます。いつも有難うございます。
どうしてもコメントしたくお邪魔しました。
私は、本年5月よりこの道場で学ばせていただいて、それこそ多くの人から俳句のことを教えて頂きました。俳句の基本、文法、季語のこと。
特に季語については、何人かのかたより季語を主題に!季語を大事に!と教わりました。そのお陰で多くの季語を知り、季語の持つ本意とやらも勉強したつもりです。
今まで手にしたことも無い歳時記も購入して読みました。お陰で自分の心情を表現するために季語を使っての表現力が少しは広がったかなと思います。
そんな時、おかえさんのこま爺さんへのコメントを読ませていただきました。
また、同時にこま爺さんが紹介して下さった季語についての論説も読みました。
あの芭蕉の句の多くが季語主役となっていないことが書かれてありました。
さてここからが、私の悩むところで有ります。はたしてどちらが正解か?
でもどちらかと言えば、私は、おかえさんのコメントに共感です。
自分は俳句を、自分の心の豊かさを広げる為。気候に恵まれ、気候に左右されながらも懸命に生きること。自然を愛し、日常の生活を大切にし人を敬い人に優しく。
そして小さくとも少しの事に喜びを感じる。そんなことのために詠んでいるつもりです。どんなに拙くても、駄句と人にいわれようが。人の評価は人それぞれです。
自分の句に、少しでも感動や共感を覚えてくれる人が一人いてくれれば嬉しいと思います。ただ当然俳句を詠む以上、一人でも多くの人に共感してもらえるように努力することは必要だと思います。
ここは道場と言うところなので、ある意味仕方ないのかとも思いますが、最近感じるのは、句を素直に鑑賞するということ、その句から詠んだ人の心情をどう汲み取るかと言うこと、うまく言えませんがそのあたりの事が少し欠けているように感じております。どうしても、季語のこと、文法のこと、技巧的なこと。添削してあげたとばかりに。最後に御句の玻璃。ここは私は玻璃だからこそ生きていると思っております。
あくまでも私の思いでしかありませんが、無機質なガラス(硝子)ではおかえさんの心情を汲み取ったことにはならないと思います。
人にはひとの考えがお有りなので、このコメントはあくまでも私個人の思いで有ります。この道場でおかえさんはじめ、数人のかたとは気安くお付き合い(勝手にそう思っているだけですが)させていただき、そのことだけでもこの道場に参加出来て良かったと思う今日この頃です。
ながながと失礼いたしました。またよろしくお願いいたします。
点数: 2