「卒業の後に廃校泣く恩師」の批評
こんばんは。
フィードバックしないと言いながら前言撤回する言葉に信念のないげばが通ります。
批判するなら‥‥の言葉が強くてこうなると誰もコメントに来なくなるのでは、と思いまして、私ごときで良ければと性懲りも無く考えを述べに来てしまいました。今日は喋りたい日なんでしょうね、久々にワーワー喋ってしまっています。
御句。前句より伝えたいものが伝わってきました。
前回の句でも同じですが、やはり気になるのは結果を書いてしまう傾向です。
まず、卒業の後に廃校、という映像ではない状況・コトの説明があること、
そのうえ、
廃校前の卒業だから、恩師が泣いていると、結果まで出してしまうと想像の余地が薄れてしまうこと。
廃校式次に控へて卒業す/藤田美智子
今日限り廃校となる卒業歌/佐藤信子
句材としてはわりとよくあるので、例句はたくさんあるのですが、上の二句は、そこにいる人物がどんな顔をしてるか、などを読み手に全部言わずに想像させてくれるところが佳いなあと思います。そんな想像の余白みたいな部分、省略の文学が俳句の魅力のように思います。
恩師は泣いてるのかなあ、生徒はどんな顔で歌うのだろう。
もし恩師も入れたまま、因果を少し薄れさせたいなら
卒業歌廃校に泣く恩師かな
少し薄れましたがやはりまだ中七に説明が残ります。
卒業という季語のなかに人が内包されている季語だからでしょうか。人は言わなくても卒業という季語の中に、先生や生徒という人物が見えるからでしょうか。もし人を出すなら用務員さんとか、季語の範疇の人から脱けた人が登場するときとかですかね。人でない要素を出したくなります。
卒業歌廃校となる大樹かな
卒業歌廃校となる部室かな
ここまでいくと添削でなく改になるので、あまりやりたくないのですが。因果の結果や景をすべて言わずに、別の要素で想像の余地を補給することを私ならすると思います。大樹を見て作中主体は何を思うのだろう、部室にいて誰が何を思っているのだろう、どんな表情でいるのだろう。想像させたいなあと思います。
今回は私の考えを述べるだけでなく、裏付けや改善案をということで意識はしましたが、もうげばげばは来ていらん、イサクさんの意見だけでヨロシイということであれば退散しますー。イサクさんが意見してくだされば私はまず意見がかぶるであろうので言うこと無くなりますからね。
ではお邪魔しました。