「迷わぬよう願って送り火天見上げ」の批評
百じいさん、こんにちは。初めまして。ヒッチ俳句さんからバトンタッチを受けたなおじいと言います。
よろしくお願いします。
御句拝読しました。ご両親への切々たる思慕が感じられますね。
ただ、一つ重要なことは、御句の前半でおっしゃっていることは、すでに季語の中に入っているという点です。
どういうことかと言いますと、迎え火というのは、ご先祖様が間違えないで我が家に来てくれるように目印に焚くものですね。では送り火はというと、気をつけて天国へ戻ってねという思いを込めて、道を明るく照らしてあげるような気持ちで焚くものだということです。
それからしますと、「送り火」という季語だけで、百じいさんのおっしゃる「迷わぬよう願って」という意味は織り込まれているのです。「送り火を焚く」ということ自体が、こういう願いから出ているということで、あらためて言わなくても通じますよ、ということです。
ですから、その空いた分だけ、他のことを詠むようにしてみましょう。
天をそらと読むのにはこだわりがおありのようですので、「天見上げ」はそのままにして位置を変えて、
・送り火や向かひの家も天見上げ
玄関先で送り火を焚いていたら、お向かいの家も気が付いて故人を懐かしがり、一緒に空を見上げているという風情です。
ただ、送り火と天または空を見上げるというのはかなり似たようなことを考える方々が多いと思いますので(類想と言います)、少し独自性を入れるとオリジナルなものができて際立つと思います。
・送り火や美空ひばりを流しつつ
父さんは「川の流れのように」が、母さんは、「愛燦燦と」が好きだったなぁとか。
参考になれば幸甚です。