「水差しのひまわり五本ひっそりと」の批評
めいさん、こんにちは。再訪です。短い間にご親族が続けて亡くなられて、さぞやお力落としのことと存じます。
本来であればそっとしておいて差し上げるべきで、添削だとか提案だとかするものではなかったかもしれませんが、道場にご投句でしたのでコメントさせていただきました。
今回も、お尋ねでしたのであえてお答えさせていただきます。長くなりますことご容赦ください。
めいさんは、7月12日にご投句の「父の遺影待つ小さき手や夏の空」のことをおっしゃっていますね。
少なくても、私はめいさんのご親族関係を存じ上げませんし、差をつけるようなつもりは毛頭ないことをまずお伝えしておきます。
それにも関わらず、悲しい思いをさせてしまいましたのは、ひとえに私の説明不足、言葉足らずでした。申し訳ありませんでした。
ご存知のように俳句は一人称ですので、たとえば「父」と出てきたら、読み手は作者の父親のことと受け取ります。
最初の句で「父の遺影」とあれば、誰が見ても「めいさんのお父様の遺影」と受け取り、めいさんのお父様が亡くなったと思うでしょう。「俳句を読んで、ご親族が驚かないようにしたいです」というのは、めいさんのご親族が、「めいの親父さんが亡くなったのか?聞いてないぞ!」とか驚かれないように、という意味でした。余計なお世話でした。すみません。
一方、今回のひまわりの句は、コメントが「そのままの意味」とのことでしたので、俳句をそのまま読んだら、普通は最初に書き込みがあった方のような鑑賞になるだろうと思いました。その方が後から事情をお知りになり、大変恐縮して「コメント取り下げます」とかおっしゃっていたので、「それは無理もないのでは?」という意味で出しゃばってしまいました。
私の提案句で「伯母」といえば、他の誰でもない、めいさんの伯母様のことです。ご親族は皆さんご存知ではないかと。これは差別ではないです。
最後に、繰り返しになりますが、私はめいさんのご親族のご不幸に差をつけるつもりなど全くありませんし、その根拠も理由もありません。読み手に作者の思いや状況が誤解されずに正しく伝わるようにするにはどうしたらいいかと思ってのことでした。
ただ、今となっては余計なことをしたと思っています。すみませんでした。