「帰りみち月と見まがふ五階の灯」の批評
こんばんは。
まずは毛虫の句にコメントを残しておりませんし、そちらから。
【さう言へば近ごろ毛虫見なくなり】
◆「夏なのに近ごろ(年単位)は毛虫を見なくなった(夏)」
◆「毛虫の季節が過ぎたようで、近ごろ(週~月単位)毛虫を見なくなった(毛虫が出なくなったので晩夏頃~初冬頃)」
少なくとも二通りの解釈が可能だと思います。
どちらの解釈をしても夏の季語「毛虫」という存在ありきで、季語は機能しているようです。
ただ「いない(いなくなった)ものを詠んでいる」ので、作品の季節はブレて確定しません。
掲句は、「物体としての月」あるいは「月の光る様子」を比喩として詠んでいる句。
◆そもそも作中主体が季語の「秋の月」を意識していません。毛虫の句との大幅な違いはそこでしょうか。
慈雨様が「春の月でも冬の月でも成り立ちそう」と書いていますが同感です。ぶっちゃけ「動画の月・写真の月」でも比喩が成立しそうです。
では「季語がないので無季俳句であるか?」という点。
無季で俳句を成立させるというのは相当難しいです。
季語がない=無季俳句、というわけではありません。
自由律だろうが無季だろうが、作者が「俳句である」と断定して作れば「作者にとって俳句」です(某アニメの心の俳句みたいなものですね)。
でも他者から見たら『季語なしの場合、川柳でも一行詩でも日記でもなく【俳句】と判断する根拠はなんぞや?』ということになります。
なお、掲句は、句の中で「月」という単語がぽっかり浮きあがっており、「月」という単語の力を用いて作られている一文であることは認められそう(ただし、季節感はなし)。
◆他の点
□上五「かえり道」という導入が機能しているかどうか?
□「五階」という数詞が効果的かどうか?
この二点はまだ推敲可能な場所であるということで。